山口県光市母子殺害事件で、最高裁が二審広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を差し戻す判決を出した。これで被告人に死刑が言い渡される公算が大きくなった。事件から七年が経ち、ようやく
本村洋に希望の光が見えてきた。昨夜(6/20)の報道ステーションに本村洋が出演して判決の感想を語っていた。三十歳になり、ずいぶん大人の男の顔になった。今の本村洋もいいが、七年前の若い本村洋もとてもよかった。本村洋の理路整然とした主張にはいつも聞き惚れる。スピードも速すぎず、遅すぎない。無駄や矛盾がない。オーラルが素晴らしい。中身は珠玉の言葉が詰まっていて、頭のノートにメモをしないと勿体ない感じがして、テレビの前で私はいつも緊張してしまう。昨夜は道義的責任について論じていた。しかしそれにしても、本村洋が司法や刑法を論じると、どうしてこれほど全ての言葉が納得的に了解されるのだろう。本村洋そのものが刑法の教科書であり、教科書と言うより聖書の存在なのだ。
本村洋の口から法律の規範原理をあらわす言語が出ると、その言葉は生き生きと原義の輝きを取り戻し、力強い意味と説得力をもって我々に迫ってくる。この男こそ、真に最高裁判所長官に相応しく、わが国の法務大臣に相応しい。例えば正義とか正義感という言葉。今の日本社会で意味が失われ、原義が見失われている言葉だが、本村洋が使うと言葉にエッジが立って意味が蘇ってくる。正義感という言葉が耳に素直に入り、そして言葉の意味の再発見の感動で心が揺さぶられるのである。本当に不思議だ。それがテレビの中では古館伊知郎とのやりとりで、頭の悪い古館伊知郎は、こうした法哲学論議をアドリブでこなせる人間ではないから、事前に問答形式のシナリオが構成されていることがわかる。古館伊知郎が訊き、本村洋が答える形式で生放送を埋めるコンテンツが生成されて行く。だが、古館伊知郎の口から出る「正義」には原義の響きがないのだ。意味の失われた、疎外された「正義」なのである。
昨夜の道義的責任論にも感服させられた。本村洋の説明として出ると、道義的責任という言葉も本来の意味を蘇生して重々しく胸の奥に入る。罪を犯した人間は法的責任とは別に道義的責任がある。法的責任を全うするのは当然で、しかしそれとは別に、道義的責任から逃れることはできない。そして道義的責任を果たした上で法的責任を果たさなければならない。二つは違う。両方の責任を正しく果たす必要がある。この場合、本村洋が被告人の福田孝行に対して求めている道義的責任の遂行とは、自分の犯した罪と正当に向かい合って、心から反省する人間になるということだろう。そして、心から反省した上で法的責任を全うすべく死刑を受け入れよと言うのである。折から福井俊彦の道義的責任という問題がニュースになっていて、暫しこの道義的責任という言葉について考えさせられた。福井俊彦に対して新聞記者から「総裁は道義的責任についてはどう感じますか」という質問が発せられる。福井俊彦は逃げて何も答えない。
記者の質問の意味は「総裁を辞任する考えはないのか」ということで、要するに総裁辞任を迫っているのだが、言葉を発している新聞記者にも、言葉から逃げている福井俊彦にも、道義的責任という言葉は語義を喪失して単なる記号でしかないのである。道義的責任があるというかぎり、実は最初に道義(規範)の存在があって、人は社会において道義に従って行動せねばならぬという前提がある。つまり倫理だ。倫理のインプリメントが前提されている。その前提が危ういのである。現代人である我々はその前提を容易に確信できず、必要条件を訝り、空疎感や無力感の意識なしに道義的責任という言葉を使うことができなくなっている。言葉が痩せ、枯れ衰えている。けれども本村洋が「道義的責任」とテレビで言うと、実感を諦めていた道義の存在が俄かに輪郭と質量を帯び、その実在と機能への希望と期待が首を擡げるのである。英語ではモラル。本村洋は社会の全員がそれを持っていて当然で、違反には責任追及が当然だと言う。
本村洋の道義論、そして法的責任と道義的責任の二元論は、説得的であると同時に啓発的で、ここには例の仇討ち論を正当化する論理的根拠が潜んでいる。つまり、道義的責任を貫徹する上で法的責任をバイオレートする可能性もあるのだという主張が崩されていない。そこにも感心させられた。本村洋の刑法論は、論理的であると同時にひたすらシンプルに倫理的で、法律論議がテクニック・プロパーではないのである。弁護士の大沢孝征は、
全国犯罪被害者の会の中核として活躍し、
犯罪被害者基本法の制定に貢献した本村洋を絶賛、並みの弁護士では太刀打ちできないほどの法律知識と弁論能力を持っていると称揚した。同感である。法と倫理。この二つは本来切り離せないものだ。それが現代では切り離され、司法に携わる人間が倫理の問題を省みず、省みなくて当然になっている。一審と二審の誤謬もそこに起因する。最高裁が判決文の最後に「正義」の言葉を置いたことに注目したい。本村洋は一人の力で司法を動かして正義を実現した。
本村洋の偉業に感動し、心から感謝の言葉を言いたい。法の裁きは決して国家の制度に物象化されない。裁きに関わる人の意思が裁きをするのだ。このこともあらためて学ばされた。神が地上に遣わした正義の
カリスマ。