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本と映画と政治の批評
by thessalonike4

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サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ
サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_16545131.jpgサンクトペテルブルクを旅した頃、その少し前、世界はキューバ危機以来の核戦争の恐怖の下にあった。核戦争で人類が滅ぶ時刻を午前零時として現状を警告表示する「終末時計」で、記憶では、確か5分前まで針が進められて世界の人々を戦慄させたのがこの時期だった。ソ連を「悪の帝国」と呼んで強硬論で挑発するレーガン政権に対して、ソ連は中距離核ミサイルSS20の欧州配備で対抗、応じたNATOがパーシングⅡを配備して対峙した。一触即発。米ソの中間に位置するヨーロッパ平原が核戦争勃発の舞台となることが必至な情勢となり、ヨーロッパ中の若者が立ち上がって空前の反核運動が沸き起こる事態となった。あの頃のソ連というのは少し不思議で、経済は壊滅寸前のボロボロの状態にありながら、なぜか軍事だけは異常に勢力旺盛で、ICBMの保有数でも米国を上回っていたし、世界の各地に軍事顧問団を派遣して、露骨な軍事介入で第三世界の共産化に邁進していた。



サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_1711243.jpgあれはブレジネフの思想なのだろうか。キューバ兵によるアンゴラ内戦介入やエチオピアのメンギスツ軍事政権はこの時期の話で、日本海では空母ミンスクが威容を誇示していた。日本でも世界でも冷戦の趨勢はすでに内面的な決着がついていて、当時のソ連の軍事力のみに依拠した覇権主義は最後の無駄な悪あがきしか見えなかった。82年の1月にブレジネフが死に、後継したアンドロポフには何事かを期待してよさそうなインテリジェンスが漂っていたが、世界が雪解けを期待する中でわずか一年半後にあっけなく死んだ。そして誰が見ても半死状態にしか見えないチェルネンコが登場して、何か嫌々ながら共産党書記長のポストに就かされた感があった。アフガン情勢は泥沼化して、ソ連は完全に行き詰まっているように見えた。人類が核のボタンを預ける人間として瀕死のチェルネンコの健康状態はあまりに危険に見えた。あのままゴルバチョフが出なかったら世界はどうなっていただろう。

サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_16555266.jpg歴史を作るのは人間で、人々を危機から救うのも人間だ。その頃、渋谷や自由が丘ではカフェバーの新業態が流行っていた。店内の壁面や天井に大きなテレビモニターが据え付けられ、それを見ながら若いカップルがドリンクを楽しむ新しいスタイルの喫茶店。そのカフェバーで見せるコンテンツが、マイケルジャクソンを筆頭とする海外音楽家の新作プロモーションビデオで、特に人気があったのが「Thriller」と「Beat it」の二作品だった。このニつが無かったら、カフェバーは新業態として概念を成立させることはできなかっただろう。マイケルジャクソンと並んで、当時、精力的にプロモーションビデオを製作していた一人がポールマッカートニーで、特に「Pipes of Peace」の映像が印象深い。What do you say ? Will the human race be run in a day ? Or will someone save this planet we are playing on ?

サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_1656582.jpgこの反戦歌の創作と流行の背景にはINF(中距離核ミサイル)による欧州核戦争の危機と恐怖があり、そして反核運動の盛り上がりがあった。ジョンが生きていれば、この反核運動の先頭に立っていたことは間違いないが、ポールマッカートニーもまたビートルズの一人だった。世界は凍てつくような緊張の極にあったが、この緊張に対して渾身の力で立ち向かっていた者は他にもいた。米国の映画人のウォーレンビーティとダイアンキートンが映画史に残る感動の名作を製作して、反核運動する欧州の若者たちの背中を後押しした。日本での公開は82年。完全に凍結してしまった感のある米ソ外交チャンネルの外側で、ウォーレンビーティが必死で両国の緊張緩和と信頼回復のために動いていた。スクリーン上には六十年前の若々しい米ソ両国が映し出されていた。ソ連はまだ生まれたばかりで、その誕生の瞬間に若い米国人が立ち会っていた。私から見て、これはウォーレンビーティがソ連指導部に呼びかけた融和のメッセージだった。

サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_16561759.jpg当時政治局員のゴルバチョフは映画を見ただろうか。それから三年ほどしてゴルバチョフが登場する。ジュネーブとレイキャビクの交渉があり、87年にIMF全廃条約が締結された。レイキャビクの交渉は86年10月で、固唾をのんで二日間を見守ったが、歴史に残るいい政治だった。映画のことを思い出したのは、一つはサンクトペテルブルクを旅した当時を思い返したからだが、もう一つあって、それは中距離核ミサイルの問題である。二十年遅れで東アジアも中距離核ミサイルの時代になり、核戦争の危機が現実のものになりつつある。ノドンは中距離ミサイルで、核弾頭が搭載されればIMFになる。日本は海自の護衛艦や潜水艦に巡航ミサイルを艦載するようになり、その弾頭にいずれは核を装着するようになるだろう。それをもってノドンに対抗する防衛力とするはずである。が、恐らくその武力は対北朝鮮にとどまらず、中国を威嚇牽制する軍事力に転化するに違いない。中国の都市と基地にも照準を合わせる。そして、台湾問題に干渉するようになるだろう。

サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_16562682.jpgOr will someone save this area we are playing on ?  誰かが出て、ゴルバチョフのような人間が出て、東アジアを救ってくれるのだろうか。ウォーレンビーティとダイアンキートンのように、凍結した日朝外交チャンネルの外側で、日中外交チャンネルの外側で、渾身の融和努力を作品で投擲してくれる知識人は出るだろうか。十年前の山崎豊子とNHKのように、日中友好の意義をコンビンスさせてくれる作品を国民に見せてくれる人間は出るだろうか。それより何より、ポールマッカートニーが応援した欧州の若者たちの反核運動のような、大型の反戦運動は日本の中で沸き起こるだろうか。戦争を回避しようとする努力は出現するだろうか。

サンクトペテルブルクを旅した頃(2) - もうどこにも行かないでくれ_b0087409_2224937.jpg

by thessalonike4 | 2006-07-17 23:30 | その他
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