立花隆が「
8月15日と南原繁を語る会」の宣伝をしているので、それに少し補足を加えたい。南原繁については一年前に一度だけ
記事で取り上げたことがある。立花隆は南原繁を戦後日本のファウンディング・ファーザー(建国の父)として紹介しているが、基本的にその捉え方で間違いないだろう。南原繁が戦後日本(私たちの祖国である)を創建したと言っても決して言い過ぎではない。が、立花隆が触れてないところで、南原繁の業績についてどうしても言わなければならないことがある。南原繁の生涯最大の功績は、何と言っても丸山真男を世に送り出したことである。このことは何度でも繰り返し言い続けなければならないし、知らない人間には教えなければならないし、南原繁を語るときに絶対に落としてはならないことである。南原繁がいなければ、丸山真男は世に出ることはなかった。南原繁がいなければ、我々は丸山真男を得ることはできなかった。南原繁がいなければ、戦後日本は丸山真男抜きの戦後日本になっていた(そんなものがあっただろうか!)。
南原繁が彫った仏像に丸山真男が生命の息吹を吹き込んだのが戦後日本である。そう言って差し支えない。立花隆のコラムを読み、ブログの記事を読んで南原繁に関心を持たれた若い読者は、願わくば「丸山真男集第十巻」を書店で入手して、その中の「南原先生を師として」をお読みいただきたい。南原繁と丸山真男の出会いは奇跡であり、日本にとっての幸運だった。南原繁の偉大なところは、丸山真男の天才を一目で見抜いたところである。天才を一目で見抜き、受難の時代に大事に守り育て、そして時代の転換期に羽ばたかせた。南原繁だからできたことで、他の人間にはできなかったことだ。もし南原繁がいなければ、丸山真男は共同通信の記者になっていた。そこから先は想像でしかないが、丸山真男の背後には常に特高の監視の目が光っていて、どこの戦地に従軍記者として送られたか分からない。敗戦の頃に南方の戦地に送られていれば、輸送船もろとも米軍の潜水艦に海に沈められたか、あるいは戦場で兵隊たちと一緒に飢餓で命を落としていた。
助手に採用が決まると、先生は突然「順当に事が運べば君をスタッフの一人としたい」と非常に重大な事を切り出されました。(中略)私は助手期間を終わって、そのまま大学に残って研究生活を続けるというような事は考えてもいませんでしたし、それに私にはそういう先生の申し出にひっかかる個人的事情がありました。(中略)高等学校の時に、そのころ出来た「唯物論研究会」に出たのがもとで一寸警察の御厄介になった事があります。それ以来どういものか警察のブラックリストに載り(中略)執拗に特高につきまとわれました。また助手になってからも陸軍の簡閲点呼の時など、何百人の壮丁の中から、私一人だけ呼び出されて、憲兵の思想係に色々尋問されるというような目に一度ならず遭っています。(中略)それで「いや実は私は・・」というわけで、先生にはそのときの自分の身上を話しまして、「そういう次第で、将来のことは自分としては考えていない。助手になっても万一にも法学部に迷惑をかけることがあったらすぐ辞表を書く」ということを先生に申しました。 (第十巻 P.178)
南原繁は丸山真男に「そんな程度の事は問題ではない」と言い、そして「いやしくもこれから専門として学問を志す以上、方法論の上では君の今立っていた立場とか、これまでの勉強とかいうものを一切白紙に戻して出発せよ」と諭して励ましている。心が熱くなる、ドラマ作品にしたい運命の瞬間。この瞬間がなかったら戦後日本はなかった。このときが37年で日中戦争が勃発した年である。時局の中で思想的に孤立し、右翼と権力から迫害されて追い詰められていたのは、若い丸山真男以上に法学部教授職にあった南原繁その人だった。日中戦争から真珠湾攻撃までの四年間、東大はまさに受難の時代にあり、矢内原忠雄の辞職事件、大内兵衛と有沢広巳の検挙事件、河合栄治郎の著書発禁と起訴事件、さらに丸山真男も関係する津田左右吉事件と続く。文部大臣は後に戦犯となる荒木貞夫。右翼は雑誌「原理日本」等で東大法学部を「赤化容共風の出自本願」として総攻撃、カント研究者でリベラルの南原繁はその攻撃対象の筆頭にあげられていた。
前の記事でも書いたが、三木清や河合栄治郎の悲劇と不幸を思うとき、南原繁が治安維持法の禍に遭わずにあの時代を生きのびられたのが本当に不思議な気分になる。そんな中で二人が師と弟子として出会い、戦中を生き抜いて戦後日本を創って行った。この「南原先生を師として」を最初に読んだ頃の印象は、もうずいぶん前だが、大学の師弟関係でありがちなリップサービスで脚色しているのかなと感じていた。そう思ったのは、研究成果や方法論や思想的影響力の面だけ見れば、南原繁と丸山真男では全く比較にならなかったからである。学問の面で丸山真男が南原繁から学んだものが何かあっただろうか程度に単純に考えてきた。年をとるに従って見方が変わってきて、単なるリップサービスではないと確信するようになった。実際のところ、南原繁がいなかったら丸山真男はいなかったのだから。マネジャーとして南原繁は傑出している。その面から言えば、例の大学紛争のために早くして大学を去った丸山真男は人材を育成することができなかった。
このことが本当に口惜しい。できれば法学部長になって、東大総長になって、南原繁が丸山真男を育てたように、若い俊秀を発見して育てて世に送り出して欲しかった。私が全共闘を絶対に許せず、敵意と憎悪を抱いているのはそのせいもある。
別の記事でも書いたが、東大の時代は終わった。現在の東大(岩波社会科学)には全く説得力がない。それはアカデミーの官僚化と貴族化という問題に尽きる。立花隆が一生懸命に宣伝しても空しく響くだけだ。私は
この会への参加申し込みはしなかった。佐々木毅なんて冗談じゃない。何でこんな人間が入っているのだ。高橋哲哉と姜尚中の話を聞きに本郷まで出かける気にはなれない。どうせなら上野千鶴子を呼んで「南原繁とジェンダー」の演目でも入れたらどうだ、と揶揄の一つも言いたくなる。東大は駄目だ。腐っている。今、日本国民に説得力と生きる力を与えているのは早大文で、例えば8月15日に五木寛之と村上春樹と辺見庸の三人が大隈講堂に揃い踏みするとなれば、私は何をおいても馬場に馳せ参じるだろう。
東大を復活させるためには、一つは岩波書店に編集者が出なければいけない。吉野源三郎が要る。岩波書店に人物が出て再生することが鍵だろう。茶らけた脱構築商業主義路線を清算して、戦後民主主義の原点に(原理主義的に)復初する必要がある。そして、立花隆がブログを読んでいれば真剣に考えてもらいたいが、冗談で言っているのではないから本当に真面目に考えて欲しい提案なのだが、東大総長にウォルフレンを招聘せよ。ロッテは
バレンタインで強くなった。日本ハムはヒルマンで強くなった。三顧の礼でウォルフレンに総長に就任してもらって、ウォルフレンに次の人材を育てさせよ。丸山政治学を正しく継承したのは、これまでのところウォルフレンのみである。