サイードが生きていれば、今度のイスラエルのレバノンとの戦争をどのように書いていただろう。イスラエルの二正面戦争の謀略の真実と米国のネオコンの政治をどのように我々に伝えてくれただろう。サイードの白いみすずの文章をもう読むことはできず、サイードが暴露する戦争とプロパガンダの真実を知ることができない。新聞記事を読んだり、ブログに書いたりするだけでは、何かこのイスラエルとネオコンの戦争に対して、自分も抵抗者の一人として輪の中に入っている感じがしない。サイードに印税を払って、白いみすずのページを捲って真相を確認することで、読者としてイスラエルとネオコンに対峙する世界市民の一員になっていた。病魔に犯された身体の苦痛を堪えながら、衰弱する精神を自ら彫り刻むように、暴力と不条理への激憤の奥底から表現を搾り出してイスラエルとネオコンを告発したサイードの文章は素晴らしかった。シンボルとしてのサイードの意味は大きく、シンボルを失った我々の損失は大きい。
サイードは暗殺されたに違いないと私は思っている。
アラファトも暗殺されたのだろうと思っている。イスラエルとネオコンにとって二人は邪魔な存在だった。48時間の空爆停止はイスラエルが南部の住民を北部に強制移動させて、ヒズボラとの地上戦のために有利な無人地帯化するために行った作戦の一環であり、その結果として膨大な難民が発生した。映像は重い荷物を抱えて家を捨て町を脱出する人々を捉えていた。真夏の灼熱の太陽の下で歩いて故郷の町や村から逃げる人々を映していた。その中に年老いた母親を背負って歩く男や、病気で歩けぬ老婆を腕に抱えて歩いている男たちの姿もあった。幹線道路は渋滞し、ガソリンスタンドには長い車の列ができ、避難することさえままならない。車を持っていない者や乗り合いタクシーの料金を払えない貧しい者は、炎天下の下を歩くか、あるいはイスラエル軍が侵攻して戦場となる町に居残る道を選ばなければならない。これが普通の市民にとっての戦争の真実だ。
レバノンに生まれなくてよかったと傍観者で思い済ますことはできず、イスラエルの侵略戦争に対抗し反撃する有効なピンポイント・ポリティックスのアイディアを探し出すことはできず、その二つの中間で、ただ事実の記録を配列して自慰することしかできない。何か、最近は特に黒いチャドルを被った人たちだけが割を食わされている。黒いチャドルを被って英語ではない言葉で苦痛や苦悶を訴えている老婆たちが、他の人たちより不当で過剰な不遇を甘んじさせられているように見える。彼女たちの人の命の価値が他の人たちより軽んじられているように感じる。昔は、よくアフリカの真っ黒い子供たちが、痩せ細って栄養失調になり、瞼に蝿がたかり、腹にガスがたまって膨れた映像が映されて、アフリカの人たちの命の軽さがテレビで象徴的に映されていた。今はイスラムの人々が苦界の中心に寄せ集められているように見える。イスラムの弱者だからいじめられても当然だという新自由主義(グローバルスタンダード)の視線を感じる。