民主党の「
憲法提言」の「国連の集団安全保障活動を明確に位置づける」の項には次のようにある。「
憲法に何らかの形で、国連が主導する集団安全保障活動への参加を位置づけ、曖昧で恣意的な解釈を排除し、明確な規定を設ける。(中略)こうした姿勢に基づき、現状において国連集団安全保障活動の一環として展開されている国連多国籍軍の活動や国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にする。それらは、その活動の範囲内においては集団安全保障活動としての武力の行使をも含むものであるが、その関与の程度については日本国が自主的に選択する」。一読してすぐに思い浮かんだのは、この民主党憲法が制定施行された暁には、自衛隊はレバノンに派遣されてヒズボラと戦闘しなければならなくなるという想像だった。今回、ヒズボラも順守の意向を示している
停戦決議には積極的な評価をする向きもあるが、米政権とイスラエルはあくまで決議の目的をヒズボラの武力排除へ向けての戦略的一環と考えており、すなわちイスラエル軍の流血の犠牲を払わずに南部レバノンからヒズボラの勢力を一掃させるべく国連部隊を利用するところに主眼がある。
国連のレバノン派遣軍が中立的性格を失って米国とイスラエルの思惑どおりに動く「侵略軍」になる危険性はきわめて高く、国連が米国に牛耳られている現在、レバノン派遣部隊が朝鮮戦争時の国連軍と同じ性格に転化する可能性は否定できない。その国連軍に陸自が編入されて、ヒズボラの武装解除の任務を負った場合にはどうなるだろうか。イラク戦争のときはフランスが強固に反対したために、イラクへの侵略軍は国連軍とはならずコアリションの多国籍軍となった。あのときフランスとロシアが米国に追従して武力行使に賛成していたら、イラク戦争は国連による侵略戦争になっていた。国連による武力行使だから全てが正統化されるという考え方は現在は危険だ。もっとリアルな想定を言えば北朝鮮の問題がある。現在は非難決議の段階だが、これが国連憲章第7章に基づく制裁決議へと歩が進み、さらに武力行使にまで及んだ場合はどうなるか。国際的孤立を恐れた中国が拒否権を発動せず棄権した場合、国連多国籍軍が編成されて沖縄に部隊が集結する事になるだろう。司令官は米軍で攻撃主力を自衛隊が受け持つタスクフォースになる。
8月12日に
岡山で開催された民主党の「憲法対話中国集会」には、枝野幸男と
平岡秀夫と江田五月と岩国哲人の大物が揃って出席していた。その席で江田五月は、「
平和主義の理念は堅持しなければなりませんが、その具体化については、軍縮などのさまざまな政策努力こそが必要で、憲法9条の文言だけを墨守する発想からの脱却が必要だと思います」と聴衆に向かって
明白に語っている。江田五月は丸山ゼミの優秀な卒業生だけれども、天国の
丸山真男が江田五月のこの言葉を聞いたら何と言うだろうか。民主党が憲法9条の改正を国民に説得するとき、説得根拠として主張する論理はいわゆる「歯止め論」で、要するに現状の9条では政府に歯止めなく拡大解釈され続け、現にこれまで拡大解釈を許してきて、歯止めがかからないから、歯止めをかけるために条文を改正して解釈改憲を防ごうというものである。この歯止め論は果たして説得的だろうか。明文改憲すれば政府の拡大解釈(解釈改憲)は防ぐことができるのだろうか。私は枝野幸男と民主党の議論は詭弁だと思う。説得力の偽装であり、問題の本質をスリカエている。国民を騙す巧妙なトリックだ。
政府の恣意的解釈は条文の文言の問題ではない。拡大解釈をする政府がいる限り、どのような文言であっても拡大解釈はなされる。小泉政権が自衛隊をイラクに派遣するときに使った法的根拠は、何と憲法前文に書かれている国際協調主義の文言だった。「
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」。この崇高な決意をイラク戦争への参軍正当化の根拠にスリカエて悪用した小泉首相の欺瞞に対して、
辺見庸は心底からの怒りを言葉にして告発したが、政治による拡大解釈とはこういう事なのであって、詐術をする権力者とそれを容認する国民多数がいるかぎり、詭弁と詐術は大手を振ってまかり通る。本来、理念を文言にして掲げる憲法条文において、理念を崩して現実に引き寄せた文言が宣言化されれば、宣言された理想のレベルが下がった分、現実政治における緊張感は気圧が下がって政治から理念性が喪失されて行く。憲法が軽んじられる事態になる。
私の記憶では、憲法前文の国際協調主義を自衛隊の海外派遣の正当化根拠として詐術的に転用した嚆矢は、実は小沢一郎その人だった。時期は90年の湾岸戦争のときで、首相は海部俊樹。このとき日本の貢献策をめぐって喧々諤々の議論があり、掃海艇のペルシャ湾派遣があり、二年後92年のPKO協力法の成立とカンボジアへの自衛隊派遣へと繋がる。この間、経世会が牛耳る自民党政権の中枢にあって自衛隊の海外派兵を主導したのは小沢一郎であり、「普通の国」の思想だった。その小沢一郎の詐術的憲法解釈に異を唱えてキイキイと噛みついていたのは社会党の土井たか子だった。証拠を具体的に列挙できないのが残念だが、小沢一郎は集団的安全保障と改憲の問題について、テレビの席で発言を何度か変えている。聞き役は同じ田原総一朗で、憲法を変えないまま政府解釈で集団安全保障活動(多国籍軍参加)を認めるべしと言ってみたり、憲法を変えずにズルズルやっていると歯止めがかからなくなるから明文改憲しろと言ってみたり、新進党から自由党、さらに民主党へと渡り歩く十年間に、二度か三度ほど憲法改正論のトグルスイッチを切り替えている。
枝野幸男の歯止め論に対するもう一つの反論材料を言えば、民主党の歯止め論の説得力は、基本的に民主党が政権を取って民主党が未来永劫に政権を運営した場合が表象として想定されている。自分たちが政権を取れば小泉首相のような醜悪な詭弁憲法解釈はしませんよという主張である。確かに江田五月や菅直人が首相になれば、歯止めは歯止めとして現実に機能するかも知れない。それは信用してよいだろう。だが、再び政権交代が起きて、自民党が政権に返り咲いたときはどうなるのだ。民主党の憲法解釈と自民党の憲法解釈は同じではなく、実際の政府の政策決定はそのとき権力を握っていた政権の憲法解釈によってなされる。いくら野党が政府の憲法解釈は間違いだと国会で糾弾しても、民主主義では与党政権の憲法解釈がまかり通るのである。枝野幸男や江田五月の言う「歯止め」が実際に効く保証はどこにもない。民主党の言うとおりに憲法九条が変えられて自衛権が明記された場合、自衛隊は合憲の自衛軍となり、自衛戦争が名実ともに正当化される。自民党と民主党右派によれば、北朝鮮の基地に先制攻撃するのも自衛権の行使である。
戦前の日本は「満蒙は日本の生命線」であると言い、満州事変も日中戦争も防衛戦争だった。自衛権の行使発動である。自衛の中身は時の情勢と権力によってどのようにも拡大解釈され得る。特に日本人はそうだ。どれほど言葉で意味を固めても、そんなものはたやすく融通無碍の日本の思想(
つぎつぎになりゆくいきほひ)の餌食になる。現行の平和憲法は武力行使による紛争解決を禁じている。北朝鮮との紛争解決は専ら外交努力によってなされなければならない。私は国家間の問題は全て外交努力で武力に訴えずに解決できるし、その基本的前提で国家を運営して国民の生命と財産を守るのが妥当なあり方だと考える思想的立場だが、そう考える根拠については別の機会にあらためて述べる。民主党に話を戻せば、要するに民主党は改憲派からも票が欲しいし、護憲派からも票が欲しくて、だから両方にいい顔をしながら、真実のところは「平和主義を守る」という言葉で護憲派の有権者を騙して釣っているのである。民主党も自己欺瞞だが、欺瞞だと薄々わかっていながら、民主党の甘い誘惑に身をスリ寄せていく護憲派もそれ以上の自己欺瞞と言えるのではないか。
護憲派の自己欺瞞の中で改憲が果たされる。