ブログ世界の誹謗中傷がなぜよくないかと言うと、その習慣と文化が惰性的に蔓延することで、ブログの言論の価値が低下するからである。ブログの言論の一般評価が下がり、世間からの信用が失われる。そうなると、結局のところは、テレビで評論家やキャスターが言っていることが意味と道理のある正論になり、テレビや新聞や雑誌の言論が、従来どおり何の障害もなしにまかり通ってしまう。これまで、無手順通信のBBSがあり、インターネットの掲示板があり、庶民なり大衆は二十年前から言論の機会を得てきたのだけれど、それを誹謗中傷の遊び場にして、有意味で有力な市民の言論の砦にすることができなかった。いつも誹謗中傷の遊技場にしてしまっていた。ブログができる前から市民が発言する場はあったのに、それを政治的な抵抗の力にすることができなかった。誹謗中傷中毒患者がいたからである。真面目に政治の議論をしようとして入ってきた者も、下劣で邪悪な愚衆に侮辱や嫌がらせを受け、意欲を失い、嫌になって退散して行った。そういう悪弊を繰り返してきた。
私は、今度の(三度目の)ブログのチャンスだけは同じ失敗を繰り返してはならないと考え、今度こそはマスコミに並ぶ質の高い言論機関をネット上に構築する覚悟と決意でいた。だから
STKは政治運動であると同時に文化運動でもあった。その意義は何度も強調したし、二度の失敗の経験を積んだ人間であれば、その意義は十分に理解できているものと考えていた。が、昨年からの結果は同じで、二度あったことが三度繰り返された感がする。人間は変化していなかった。ネットの誹謗中傷を「言論の自由」で正当化してはいけない。それを認めることは市民の言論にとって自殺行為で、結局はマスコミの側に説得力を握られることになる。マスコミの言論に制止をかける力を失ってしまう。「あんなネットなんか見ていてもまともな事は何も書いていないよ」という世評で固められる。それに反論できなくなる。暴力が市民社会において絶対悪であるように、誹謗中傷がネット社会の絶対悪(=無前提で理由説明不要の絶対禁止行為)であるという原理を一刻も早く確立しなくてはいけない。
ブログピープルを運営する事業者はファンコミュニケーションズだが、今回の記事削除の一件は、単に担当者が思いつきでtbp主宰者に勧告したものとは考えにくい。社内法務で事前に検討した上での処置だろうし、訴訟になった場合を想定して弁護士と対応を協議した上での通告と思われる。仮に事業者とブロガーとの間で訴訟に発展した場合だが、提訴があって世間の話題になった瞬間、間髪を置かず、安倍事務所が
動いて主宰者と当該ブロガーを名誉毀損で刑事告訴する方向に進むだろう。今回はtbp主宰者が削除を受け入れ、当該ブロガーが記事の表現を書き換えて落着したようだが、表現を修正したということは、事業者側が指摘した「誹謗中傷」の事実を認めたことになる。もし仮に、次に安倍事務所が告訴して、名誉毀損の刑事裁判になった場合、検察は起訴状で訴因を補完する重要要件として、被疑者が政治家だけでなく一般ブロガーを執拗に誹謗中傷していた事実を問題視して争点にするだろう。ブログで政治家を批判して、批判者の感情が激高するあまり誹謗中傷に及んでしまったということは屡々ある。これを名誉毀損で有罪にするのは憲法の言論の自由に鑑みて問題がある。
だが、告訴された当該ブロガーが札付きの誹謗中傷常習者で、政治家以上に一般ブロガーに対して侮辱と嫌がらせを繰り返していた事実が明らかとなれば、状況は変わり、裁判官の心証や判断も違ってくる。仮に検察が問題を争点化して、「一般ブロガー」の代表者として私を証人申請し、裁判所から出廷要請を受けたなら、私は法廷で事実をありのまま証言しなければならない。証拠を添えて「誹謗中傷されました」と言うだろう。偽証はできない。法廷で虚偽の証言をすれば
偽証罪に問われるからであり、十年以下の懲役に処せられるからだ。もしも「誹謗中傷はありませんでした」と偽証すれば、その場で、検察官から「それならこれは何ですか」と誹謗中傷記事のコピーの束を示されて立ち往生させられることになる。無論、匿名者である私に対するネットでの誹謗中傷は、それそのものが(現在は)直ちに犯罪になるものではない。が、不正行為としての誹謗中傷の事実は明らかであり、「隠れ小泉だ」などというデマを大量かつ長期に発信されたことで信用と名誉が著しく傷つけられた事実は否めない。
私の証言は裁判で検察を有利に導くものになる。検察を有利に導くということは、告訴した安倍晋三を有利に導くという皮肉きわまる事態になるが、裁判は政治の場ではなく、あくまで正義と真実を明らかにする場であって、証言者は裁判に参加する者として、等しく正義と真実の神の前に膝を折らねばならない。ネットで誹謗中傷をしてはならぬというシンプルな禁欲原理は、このようにして逆説的に日本人の中に教訓定着するのだろう。あのストイコビッチが絶賛した平和主義の戦後日本も、310万人の犠牲者の上に齎されたものであり、犠牲がなければ築かれることはなかった。日本人が原理原則を社会に確立するためには相応の犠牲を必要とする。そして眼前の政治の事情をリアルに眺めれば、政権は来夏の参院選で解禁するネット選挙の前に、それに対処する政治措置として
判例を残しておく必要がある。誰が
判例に選ばれるかは不明だが、政権側にとっては重要な選挙対策であり、日程を睨んで着々と準備を進めているだろう。一口に「ネット右翼」と簡単に言うが、その中には弁護士もいる。電通関係者もいる。
もし裁判で証人として法廷に立った場合には、裁判所の質問に答えて誹謗中傷の事実を正確に証言するのとは別に、誹謗中傷行為を助長した幇助者たちの幇助責任について論及する機会を得たい。誹謗中傷記事にトラックバックを送信して側面支援したり、ブログのコメント欄で嫌がらせを自慢する等の卑劣行為が無数にあり、目撃した誹謗中傷は当該被告人単独の犯行では決してなかった。幇助者たちが積極的に煽っていたのである。誹謗中傷幇助者たちの
幇助責任こそが問われなければならない。その点を裁判官の前で被害者証人として強調したいと思う。無制限の自由などない。