
大学の入学時期を9月にするという話は、実は昨年の5月5日の
記事の中で書いている。記事下の安倍晋三の写真もこの日に上げたもので、公開してから中身は何も変えていない。別に自慢するわけではないが、予言したことが次々に的中して行っている感があり、しかもそれが予想したよりも早く現実のものになる。この
記事は、これまで書いた中でもかなり issuable なもので、我ながら内容の過激さが気になっている問題作である。村上龍の『半島を出よ』を読んだ後のイマジネーションで一気に改憲と徴兵制を論じた。今度の、08年8月に憲法改正の国民投票があるという
予想もそうだけれど、私の場合は、常に自分が為政者(支配者)だったらどうするという視点で考える。自分が安倍晋三だったなら、大学の入学時期を9月に変えて、半年間を自衛隊(改憲後だから自衛軍)に兵役義務で入隊させて訓練するようにしただろうと、そう思って書いたのだが、果たして安倍晋三も同じ事を考えていた。

護憲派に危機感がないという問題については、飽きるほど何度もブログで書いてきたが、二年後に国民投票があると本当に考えている人間が何人いるだろうか。が、かく言う私でさえこの人に較べれば危機感が薄かったなと思うのは辺見庸で、強烈に思い出す文章が三年ほど前にあって、その中で辺見庸はこう言っていた。すなわち、共産党も社民党も革共同二派も本当に改憲を阻止する気があるのだろうかと痛切に憂えていた。私はそれを読んだとき、少し怪訝な印象を持ったものだ。革共同二派などという単語が飛び出してくること自体が異様という感じもあったが、護憲が看板の共産党と社民党が自己の政策から護憲を放棄するということがあるはずがないと単純に思っていたからである。辺見庸はそれを正面から疑っていた。やはり辺見庸の方が一枚上で、私などよりはるかに洞察力がある。最近はそう感じる。
共産党は改憲以降の自党の生き残り策を考えている。
社民党は消えてなくなる。

三年前に読んだときは違和感を覚えたが、妙に勘ぐり過ぎだなあと感じて腑に落ちなかったが、文学部の人の感性だとこうなるのかなあと首を傾げたが、今では辺見庸が言いたかったことがよくわかる。わかりすぎるほどよくわかる。正鵠を射ている。辺見庸が「革共同二派」などと突飛もないことを言っていた理由もよくわかる。要するに辺見庸は、左翼勢力はこれまでの行きがかりを捨てて、齟齬と確執の歴史を捨てて、護憲で大同団結せよと言っていたのだ。一本の政治勢力に結集して護憲せよと言っていたのだ。共産党には改憲後の共産党など考えてはいけないと言っていたのであり、社民党には民主党に体を売ってはいけないと言っていたのだ。そして嘗ての過激派も含めた大左翼が一本に結集して、護憲だけを唯一の目標にして戦えと訴えていたのだ。リアルである。政治論としてリアルであり、三年前の議論として見事と言うほかない。辺見庸は文学者なのに、政治学者ではないのに。まさに最後の知識人。

「憲法問題が何でそんなに重要なのか分からない」という人が多くいる。
ブロガー同盟の同志からもそう言われた。事実を言えば、今この瞬間に問題の重要性を意識できていない人たちは、国民投票のときに改憲賛成に票を入れるか、あるいは棄権する人たちである。危機感を感じている人たちは、改憲に反対の人たちであり、現時点で全体の三割ほどの人たちである。この三割を五割にまで増やさないといけないのだが、あと二年の間にそこまで持って行くのは至難の業で、逆に三割が二割に減ってしまう可能性の方が高い。改憲というのはイデオロギーを正面から問う選択になる。曖昧にできない。例えば具体的な情景として、普通の選挙のときは、投票日の翌日に、会社の同僚たちと昼飯を食いながら、「どこに入れた?」「民主党に入れたよ」で済んでいた会話が、改憲の国民投票だとそういう「逃げ」を打てなくなる。賛成か反対かを言わなくてはいけない。そして当然の話だが、企業では「改憲反対」は言えない。

「改憲賛成」で最初から口裏を合わせなくてはいけなくなる。職場では「改憲賛成」が前提になるから、だから、政治をよく知らず、憲法や国民投票に関心のない若い社員の意識においても、改憲が多数で常識という単純な理解になるだろう。そういう「常識」が常識としてインプリメントされるように世論を固めるのがマスコミの仕事でもある。民間企業の現場では、「改憲賛成」がアプリオリな社会環境なので、護憲派の人間は黙ってポーカーフェースするしかなく、またポーカーフェースしていればいいだけの話だが、民間企業の社員ではなく、小中学校や高校の教師とか、市役所や県庁の公務員たちは、多少とも厄介な立場に立たされる人間が出てくるだろう。こういう職場は「改憲賛成」が必ずしも前提ではなく、常識でもなく、逆に二十年前までは「改憲反対」が多数であり常識であった小社会である。常識が逆転しつつある社会であり、イデオロギーが表面で衝突する現場である。国民投票の前後は緊張した空気が張り詰めることだろう。
そしてそういう現場の護憲派たちは、国民投票の後には徹底的な敗北感を味わうことになる。と言うより、国民投票の前にはすでにそういう苦境に立たされていて、轟沈する戦艦大和と共に海底に沈んで行くか、それとも艦から逃げ出して生を得るか、その苦しい選択を迫られることになる。思想信条の問題で苦しむだろう。遠藤周作の『沈黙』的な世界に直面する。その後は、『
グッバイ、レーニン!』的な世界になる。ドイツ民主共和国はなくなる。護憲すべき憲法は地上から消えていて、護憲派は旧護憲派でしかなくなる。
ドイツ民主共和国と言えば、モスクワを旅したときに、東独の観光客の一団と赤の広場ですれ違ったことがあって、Where do you come from ? と声をかけたら、元気よく Democratic German と答えてきたことを覚えている。Democratic の発音に力が入っていた。その観光団の中に、引率役をしていた抜群に英語のうまい二十代の女がいて、出身地を尋ねたら、リボフ(ウクライナ)だと答えた。彼女は英語とドイツ語とフランス語とロシア語ができると言っていた。いかにも当時の共産圏のピオネールの幹部らしい冷たい視線の女で、こちらに対して全く笑顔を見せなかった。資本主義国に生まれてよかったと思った。彼女はいま何をしているだろう。