
いじめは犯罪であるという正論をようやくマスコミが言うようになった。最近、北海道滝川市の小学校の事件や福岡県筑前町の事件が大きく報道され、この背景には、これから教育基本法改正をやり、「教育改革」をやろうとする政権の意図があるのは明らかで、現在の教育の惨状を国民に告発するキャンペーンであることは間違いないのだが、それは理解していても、報道されないよりも報道された方がよい。これまでマスコミと国民が問題を放置してきたことが誤りなのだ。先月、滝川市教委指導室長の千葉潤が「手紙にはいじめという言葉が一回も出ていませんよね」とテレビ朝日の取材記者の前で傲然と開き直っていたとき、千葉潤は今日の事態を予想してはいなかっただろう。学校でいじめがあっても、それで生徒が自殺しても、そんなものはなかったと揉み消すのが学校と教委の仕事であり、責任の発生を未然に防ぐのが教育行政の任務だったからだ。他のこれまでの教委は責任追及されなかったのに何で俺だけがと思っているだろう。

いじめの問題で前々から思っていたことだが、学校でいじめが発生して、結果的に子どもが自殺に追いやられた場合は、そのクラスの教師には業務上過失致死罪が適用されるべきだと思う。業務上過失致死は、車の運転者が歩行者を轢き殺したりした場合に適用される。学校でも、真夏の炎天下で無理な部活をやらせて生徒が熱中症で死亡したり、海で水泳をさせて教師の不注意で生徒を溺死させたりした場合にも適用される。だが、刑法の概念である「業務上過失致死」を日本語として読んだとき、いじめ自殺を惹き起こした教師の責任を言い表す言葉として、これほど適当な表現は他にないように思われる。担任が教室のいじめを感知していないはずはないのだ。それは絶対にない。筑前町の事件は教師そのものが生徒をいじめて自殺に追いやった事例だが、そうでなくても、自殺まで至った場合に、教師が状況を知らなかったということはあり得ない。学級担任教師の不作為の責任は、トラックの運転手の過失責任よりはるかに重いはずだ。

教師には子どもを守る責任がある。教科を教える前に、教師は生徒の安全を守る義務がある。仮に身体的な暴力を伴ったものでなくても、いじめは言葉の暴力であり、嫌がらせであり、集団による悪質な犯罪行為である。教師は教室でいじめが起きてないかどうか、常に注意して見張る必要があるし、いじめの兆候を発見したら、すぐさま対処の手を打たなければならない。それは教科の指導以前の問題だ。今回、筑前町の田村伸一は初めてテレビカメラの前で責任追及を受ける事態になったが、本当は、20年前の中野富士見中学の「葬式ごっこ」の自殺事件があったときに、あのときに担任教師がマスコミの前で糾弾されなければならなかったはずだ。あの後、いじめ自殺事件は何百件と起きていたが、担任の教師がカメラの前に出されることはなく、せいぜい首から下が映った学校長が出てきて、頭を下げる映像だけがニュースで放送されていた。校長名はおろか学校名さえ伏されていた。責任が隠蔽され、子どもの命を奪った者が免責されていた。

いじめ自殺は殺人に等しい。加害者には責任を取らせるべきだ。いじめによる自殺が起きたら、警察は関係者の生徒と教師を事情聴取して、迷わず教師を業務上過失致死容疑で送検して欲しい。死んだ子どもの仇を討って欲しい。学年主任には過失責任を取らせ、校長にも監督責任を取らせ、教育委員会にも連帯責任を負わせるようにして欲しい。前々から思ってきたことだが、週に一回ある「道徳」の時間で、どうしていじめの問題を扱わないのだろう。今は文科省が妙な教科書を作っているらしいが、道徳の時間にいじめ問題をやればよいのだ。鹿川君の葬式ごっこの事例や、山形マット死事件の事例を教師が教えて、クラスで討論すればよいのである。そうすれば、もし教室の中でいじめが起きていたら、間違いなくそこで問題が浮かび上がるだろう。討論すればよいのであり、いじめは犯罪だと教えればよいのだ。教育指導要領の中に、道徳の時間にいじめ問題を教えることを必須化すればいい。県内の事例があれば、それをテキストにすればいい。

それと責任の問題でもう一つ言いたいことがある。それはアカデミーの責任だ。私は
前の記事でオウム真理教についての研究を日本のアカデミーが怠慢したと批判した。岩波書店か青木書店が本格的に、全五巻ほどの規模で、日本の人文社会科学研究者を動員して、オウム真理教の闇に光を当て、謎を解読する作業に取り組むべきだったと言った。鶴見俊輔や藤田省三が「転向」を分析したように、ああいう本格的な共同研究をオウム真理教事件に対して残すべきだった。それと同じように、「いじめ」の問題で本格的な調査研究をやって、「転向」研究と匹敵するほどのモニュメンタルな作品を残すべきだった。岩波書店が音頭をとって知識人を「いじめ」の学際研究に導くべきだった。そして、その研究成果が全五巻で纏って出た後は、二度と再び日本の学校でいじめ自殺が起きることのないように、岩波書店が知識人の覚悟を示すべきだった。戦後民主主義の原点は『
君たちはどう生きるか』にある。そこには何が書かれているか。いじめ問題そのものではないのか。
しかるに、いじめ問題が学校現場を吹き荒れ、子どもたちが死に追い詰められていた80年代後半、岩波書店は
吉野源三郎の精神を忘れて、浮薄な脱構築主義のディスクールにかまけ、ジェンダーとマイノリティとポストコロニアルと総力戦批判の言葉遊びでお茶を濁していた。山口二郎と佐々木毅に「政治改革」を宣伝させていた。岩波書店の脱構築主義的「ゆとり」教育論は、結果的に、文科省の無責任な「総合的な学習」の官僚行政に癒着し反映されて行った。学校教育は脱構築化して子どもの学習能力は劇的に低下したが、いじめはなくならず、学校や教師の責任も曖昧にされた。許せない。日教組にも責任がある。この問題は次に書く。私は、日本の学校から本当にいじめを根絶できるのなら、
教育基本法を変えてもいいと思っている。