大晦日。紅白歌合戦が終わると、賑やかに盛り上がったNHKホールから一転して、人里離れた山奥の深夜の静寂の世界へと画面が切り換わる。暗い参道を踏みしめるように歩く村人の姿が映り、その人々の吐く息の音が聞こえてくるような閑けさに包まれる。奥の寺の堂内から読経の音が流れ、ナレーションが今年一年の村の経済と生活を言い、その厳しさと苦しさが伝えられ、新年に希望を託して祈りを捧げる村人たちの表情が映し出される。毎年見ている「ゆく年くる年」。一年に一度のこの映像が私は大好きで、この瞬間に立ち合える幸せをしみじみと感じる。日本人でよかったと思える瞬間だ。そこには必ず家族が出て来る。二十年ほど前だったか、家の中で、父親を先頭に家族の全員が起立して、神棚の方向に手を合わせて瞑目している一家の様子が紹介されたことがあった。こういう家族の様式(スタイル)がいいなと思った。戦前はこのような家内儀式で正月を迎えていた家族が少なからずあっただろう。
昔のことをよく思い出す。大学の図書館の一階に受付があり、その横を通って右奥にあるロッカーの方へ進んだものだが、その通路の窓から見た前庭とか、前庭の向こうにある理学部のキャンパスの風景とかが浮かんでくる。理学部の建物の玄関から白衣を着た学生が連れだって歩いて来る。図書館の蔵書は、多いと言えば多く、少ないと言えば少なく、私は本を多く借りて読む学生ではなかった。ロビーで「朝日ジャーナル」や「週刊エコノミスト」を見ている時間が多く、退屈になると閲覧室で平凡社の「政治学事典」を読んでいた。数年前、大学の構内に足を踏み入れたら、すっかり雰囲気が変わっていて、図書館の右側の工学部との間の空き地に大きな新しい建物が立ち、食堂やら書店やらが入った立派な福利厚生施設ができていた。大学らしくなったと言えばそうだし、学生にとっては便利になったに違いないが、昔の、あのだだっ広いキャンパスの方が風情と風格があった。「だだっ広い」というのが大学の特徴だった。
むしろそれはコンセプトでさえあった。平面の空間が常に目の前に広がり、そこら中に未利用の空き地があり、木陰になる草むらの上に座って何かすることができた。学生一人あたりの土地面積が本当に広かった。そして国立大学らしく、学生一人あたりの教官の数が多かった。多かったなどと言うべきでなく、恵まれていたと書くべきである。特に私が入った頃は、学部の気鋭の助教授たちが三十代半ばで研究と教育に燃えている時期で、学生たちを掴まえて、喫茶室や草むらの上で「臨時講義」を繰り広げてくれるのが日常の光景だった。教えることと勉強させることに情熱的な教官たちだった。これを読め、あれを読め、と毎日言われた。俺が入って教えてやるから勉強会(自主ゼミ)を作れという教官が何人もいた。最高裁が何かの判決を出したときは、必ず翌日に「この不当判決はやなあ、」と教官が朝日新聞を片手に「臨時講義」を開いていた。それを聴くのが楽しかった。法学部生は朝日新聞を読むのが通例で、私と朝日新聞との付き合いはそこから始まった。
当時の朝日新聞は裁判の記事が詳しく、判例の情報がよく載っていたからである。その伝統は現在ではすっかり失われた。もし、あの時代、あのキャンパスで、今度の薬害肝炎問題があって、大阪高裁の和解骨子のニュースなどがあったなら、教官は「臨時講義」で憤慨して、「お前ら、大阪高裁を糾弾するビラでも立て看でも作れよ」と言ったかも知れない。あの時代の国立大学はとてもよかった。特に地方の国立大学には、まだ昔の日本の古きよき大学の伝統が残っていた。教官たちが学生に対して諦めず、真理探究の仲間として認め、積極的に共同することを働きかけてくれていた。昔の大学は、1960年代半ばまでは全国の大学が同じ環境だったが、大学紛争の後、すっかり様相は一転し、学生は学問をしなくなり、大学にライセンスだけを求めるようになり、学生と教官の関係が切れ、1980年代からは教官たちも学問をしなくなった。学問ではなくペーパーワークをやるようになり、古典ではなく英語の勉強に必死になり、学者ではなく学術官僚に変身して行った。
昨夜のNHKのニュースで、貧困の問題を考える研究会が全国40名の研究者を集めて発足することになったと報道されていた。代表は日本女子大の岩田正美。遅きに失した感はあるが、こうした研究会が立ち上がったのはよかった。そして、このような格差と貧困の関連ニュースをNHKが積極的に取り上げるようになったのはよかった。貧困研究会は12月15日に設立総会を開いている。ニュースの映像では岩田正美が研究会の意義と目的を話していたが、ネットの中にはまだサイトが設営されていない。早急な対応をお願いしたい。研究会に期待する。単に調査研究だけでなく、ネットでの情報発信と情報提供に注力し、貧困問題に立ち向かう知識人の拠点として希望の灯になって欲しい。「25条の会」を作って欲しい。私は、同じことを十年以上言ってきたけれど、日本の知識人がインターネットを拠点として結集し、権力機構と言論と情報で対抗し、政治を変える原動力となることを願っている。知識人とは決して職業のことではない。眠れる在野の知識人が目覚めて立ち上がるとき、きっとこの国は変わる。
知識人というのは、博識である人とか、硬派ものの記事を書く人とか、大変な学識のある人とかとは違う。こうした人もおそらく知識人ではあろうが、しょせんは役人、もしくはジャーナリスト、もしくは学者でしかないのもしれない。別の言い方をすれば、これらは真実の追求、あるいは客観的な理解の追究を、金銭とか安全保障とか相互扶助とかの追求より大切であると考えるとはかぎらない人々なのである。知的な誠実さを何よりも尊しとする姿勢こそ、知識人のきわだった特徴である。人が知識人であるがためには、独立不羈の思索家でなくてはならない。役人、ジャーナリスト、学者など、自分の頭を使って仕事をする人々も「知識人」たりえようけれど、これらの人はしばしば、この名称に値するほど知的に誠実ではないのが普通だ。わが身にどんな結果が振りかかろうとも、あくまで、筋をとおして考えることを自分の責務とする人々の意見は、これが権力の行使のされ方に関連する問題を取り上げたものである場合、もっとも価値が高くなる。権力行使のあり方こそ、日常の社会生活面で我々に影響を与える、他のすべての事柄を決定づけるからだ。
言いかえれば、知識人は、政治問題を詳しく説いてもらうために最も必要とされるのである。我々の自由が無用に縮小されたり、権力を保持する者がその支配下にある万人を災難に追い込んだりしないよう取り計らううえで、知識人こそ我々の持てる最大の希望である。
(ウォルフレン「日本の知識人へ」 P.4)
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