青森で18歳の長男が母親と弟と妹の3人を殺害してアパートに放火した事件があった。事件は1/9の夜の10時過ぎに起きていて、1/10の午前1時過ぎにはネット上で
一報が配信されている。昨夜のNHKの7時のニュースは、トップが新テロ特措法案の採決をめぐる国会情勢で、二番目が松下電器の社名変更の話題だった。松下電器の社名変更のニュースは非常に長く、ほとんど小特集に近い報道内容で、過去の映像を大量に探し出して編集し、さらに大阪市民や系列店関係者のインタビューを添えて全体を構成したものだった。7時15分を過ぎた頃、やっと三番目のニュースとしてこの事件が報道された。TBSのNEWS23でも、やはり最初のニュースは国会の新テロ特措法採決の問題だった。米国だったらどうだっただろう。あるいは、例えばカナダだったら、北欧の国々だったらどうだっただろう。おそらく米国でも、この事件がニュースのトップに来ないということはなかったはずだ。記者がスタジオから現地に飛び、現場の前から中継で報告しただろう。
うろ覚えだが、前に、米国の中西部で少年が親を銃で殺した事件があり、その問題が大きく報じられ、日本のテレビのニュース番組でも一日ならず報道されたことがあった。その家が深い森の中にあるような瀟洒な邸宅で、上空から家を撮影した映像が印象的に記憶に残っている。カナダだったら、そもそもこういう事件は起きないだろうし、起きれば前代未聞の出来事で、カナダ中が震撼して、数日間はニュース報道は事件一色に塗り潰されるだろう。海の向こうの外国の事件として聞いても衝撃的なニュースのはずで、なぜこんな悲惨な事件が起きたのか関心を持たざるを得ないだろうし、このような事件が起きる日本という国に異常さと薄気味悪さを感じることだろう。確かに、こんな事件が起きるのは、世界の中できっと日本だけだ。他の国では考えられない。だが、それ以上に異常なのは、18歳の長男が母親と弟と妹の3人をサバイバルナイフで刺し殺した事件が、その日のニュースのトップ扱いにもならず、国民の関心を大きく惹かない問題として淡々と処理されている日本の社会的現実であるだろう。
今日の朝日新聞を見たが、事件はやはり小さな扱いで、社会面の左上に記事が出ているだけだった。一面にはない。そして、NHKの7時のニュースと同じく、一面と二面を使って松下電器のパナソニックへの社名変更を大きく報じていた。朝日の今日の社説は二本立てだったが、この事件についての社説はなく、一本が新テロ特措法案の採決に関するものだった。今の日本では、少年が母親と弟と妹の3人を殺した事件でも、この程度の受け止め方と流し方になるのだ。日常茶飯事とまでは行かないが、ありそうな話であり、起きても特に注意して目を向ける事件ではなく、気の毒に、傷ましい、と少し思って、後は見ないようにして、新テロ特措法の政治の話やら、松下電器の社名変更の方に関心を向ける社会なのである。同じような悲劇や惨劇が多すぎて、過剰で、一個一個に注意を向ける精神的余裕がないのだ。長い時間、この種の事件と向き合うのに耐えられないのだ。何度も何度も同じような事件を見させられて、見るのが辛くなり、主記憶に情報を置きたくないのだ。精神の負担が大きく、憂鬱が深くなるだけなのだ。
そして、マスコミにあれこれ調べて報道してもらわなくても、だいたい何が起きたのは想像できるのであり、無理に家庭の事情や長男の平素の行動などを取材しなくても、状況と背景については察しがつくのである。逆に、あまり詳細に事実を報道すると、似たような状況にある子供や家庭にあらぬ刺激を与え、第二第三の惨劇へと続く恐れがあり、あまり下手に情報を公開しすぎない方がいいかも知れないのだ。一歩間違えば同じ事件が起きる家庭が今の日本には無数にある。会津若松で17歳の少年が母親の首を刺して殺し、鋸で首を切断してバッグに生首を入れて警察に自首したのは半年前の昨年5月だった。奈良の高校生が家に放火して母親と弟妹2人の3人を焼殺した事件は、一昨年の6月のことだった。大惨事には至らなかったが、戸越で高校生が刃物を振り回して通行人に襲いかかった通り魔事件が1/5にあった。何か触発された部分はあったかも知れない。今度の事件で、これを単に少年の精神異常の問題としてだけ見過ごすことができず、恐る恐る関心を向けてしまうのは、この青森の家族が生活保護を受けていたという事実があることもある。
五十年後、百年後の日本で、今の時代はどう見つめられるのだろう。誰の文章や言葉を通じて、百年後の日本人は2007年から2008年の日本の時代表象を持つのだろう。百年前の日本は、その時代の気分を私に最もよく教えてくれると思うのは、
石川啄木の『一握の砂』の三行詩の世界である。あの三行詩の数編を読み、韻律を転がすだけで、NHKの『映像の20世紀』か何かで見たモノクロの東京の町の映像が立ち上がり、上野や浅草を歩く人々の息遣いが聞こえ、その胸の内までも透けて見える。啄木の詩はトランスペアレントで、百年前の都会の東京も、田舎の岩手も、開拓地の北海道も、そのまま鏡のように再現して見せてくれる。日本人が帝国主義の侵略者に精神変容する姿も、社会主義の未熟な台頭と挫折も、その後の日本人の運命も、作品の中に編みこまれている。1908年の当時の日本の社会状況は、啄木の作品が最も説得的に示し、啄木の作品への共感を通じて、わわわれはその時代の表象を納得的に持つことができる。2005年から2008年、郵政選挙の後、日常が政治化されて精神が傷む時代を、百年後の日本人は誰の作品を通じて一般表象するのだろう。
共感の通路を作れる作品が古典となる。2001年から2004年の日本については、辺見庸がその任を負うのだろうけれど。
【政局 - 民主党は何をやっているのか】
今国会最大の争点だった新テロ特措法が再議決であっさり成立。拍子抜けもいいところだ。民主党は、この問題で参院に問責決議案を出して、衆院解散に追い込む戦略ではなかったのか。国会開会前に国民にそのように約束したのではなかったのか。福田内閣の支持率は先月の調査で33%にまで下がって、国会開会時の昨年9月を大きく下回っている。不支持が支持を上回っている。さらに、防衛省問題と年金問題が尾を引いていて、福田政権が支持率を挽回できる条件や機会は何もない。
先月18日にブログで紹介したが、インド洋での補給活動再開については、何と日経新聞の世論調査でさえ、反対が44%で賛成の39%を上回っているのである。これだけ世論の強いバックがありながら、民主党が新テロ特措法を廃案に追い込めない、あるいは解散総選挙に追い込めない理由は何だろう。「参院の多数を利用して自公政権を解散に追い込む」と言っていたのは嘘だったのだろうか。新テロ特措法の採決の前に秋山直紀と久間章生を参院外交防衛委で証人喚問できない理由は何なのか。
全くわからない。長妻昭が追及している年金記録改竄問題はどうなっているのか。新テロ特措法採決の前に、この問題に世論の焦点と関心を当てることはできないのか。正月明けすぐに、長妻昭を「報道ステーション」に張り付かせて、世論に問題喚起すればよかったではないか。そうすれば、新テロ特措法の採決どころではなかっただろう。拙攻で額賀福祉郎の証人喚問に失敗した前後から、民主党の国会対策は何をやっているか全く分からない。
新テロ特措法の採決についても、菅直人の発言がなぜか一転二転して、正月明けから腰が定まってなかった。昨年秋の国会開会すぐの時期にあると期待させられた衆院解散はなく、次の目標となった新テロ特措法再議決のタイミングも結局は見送られた。57年ぶりの再議決を史上空前の極悪非道行為だと糾弾するなら、民主党は問責決議案を出せばいいではないか。なぜ出さないのか。問責決議案も出さずに口先だけで文句を言っても国民は納得しない。
小沢一郎は、今度は3月か4月に解散に追い込むと言っている。仏の顔も三度まで。4月までに解散させられなかったらどうするのだ。サミットまで待ってやるのか。サミットまで待てば総選挙になるのか。世論は変わる。内閣支持率は刻々と変わる。政権と財界とマスコミは自公政権の延命に必死で、どんな材料でもいいから、支持率を回復させて、解散を先延ばししようと必死になっている。新テロ特措法が成立したら、公約を実現したということで福田内閣の支持率は上がるだろう。
週刊文春最新号の宮川隆義の総選挙当落予想では、自民党は200議席(現305議席)、公明党は26議席(現31議席)で、自公は大きく過半数を割り、野党の過半数獲得が確実という結論になっていた。今が最大のチャンスではないのか。国民が政権を変えたいと思っているときが、解散の世論をマキシマムにできるときだ。フォローの風がいつまでも続くと思うのは甘い。仮に「改革新党」の動きがあるのなら、なおさら、彼らに準備の時間を与えずに、早く選挙に持ち込んだ方がいいに決まっている。