
橋下徹が大阪府知事選に当選したことを契機に、BLOGの世界で奇妙な言説がまかり通り始めている。大阪で橋本徹を支持した有権者はB層で、敗北した野党候補は「上から目線」であって、彼らはB層に届く「わかりやすい」メッセージを発信してなくて、今後の選挙で大衆から票を獲得するためには、B層にもわかりやすい「下から目線」の平易で親しみやすい議論をしなければならない、という主張である。その主張には付随したBLOG論があり、ネットがテレビより政治的な説得力がないのは、政治を論ずるBLOGが「上から目線」のものばかりで、「下から目線」でわかりやすくB層大衆に政治を論じたBLOGがなく、そういうBLOGが今の時代には必要で、自分のBLOGこそがその役割を引き受けるのだという自己主張がくっついている。要するに、単に橋下徹を出汁にした空疎な自己正当化だが、であれば訊ねてみたいことがある。

ブログは「上から目線」の代表格に指定されて左右両翼から袋叩きの目に何年も遭っているが、一日のビジター数は6千、アクセス数は1万件を数える現状にある。あまりに少ないアクセス数なので自信喪失の毎日が続いているのが事実だが、周囲を見回したところ、このアクセス数を超えているBLOGは他に一個もない。上の「緩やかなネットワーク」の信者が言う「わかりやすい政治ブログ」の主張に従えば、大衆に向けて「下から目線」でわかりやすく政治を解説しているのなら、そのBLOGは大衆から支持されて、ブログの数倍のアクセス数を獲得していてもよいのではないか。「上から目線」だとマスを捉えられず、「下から目線」のみがマスにリーチすると言うのであれば、政治を論じている日本のBLOGの中で「上から目線」の筆頭格である『世に倦む日日』が最高のアクセス数を調達しているという現実は辻褄が合わないと思うがどうだろうか。

「わかりやすさ」を売りにしているネット左翼の「政治ブログ」は、せいぜい一日500件から千件ほどのビジター数しかない。とても大衆から支持されているBLOGとは言えないだろう。大衆ではなく一塊の身内の信者が群れ合っているだけだ。先日、暫定税率問題の情報を確認しようと思って、久々にテレビ朝日の『TVタックル』を見たが、ブログ左翼たちのプリミティブで皮相的な「記事」に較べて、はるかに内容があって面白かった。ブログ左翼の中で、一体どれだけの人間が、あの番組のスタッフと同じほどの暫定税率問題についての政治知識を持っているだろう。B層だの大衆だのとブログ左翼は平気で見下げているが、少なくとも番組の視聴者はあの程度のことは理解しているのである。民主党の暫定税率廃止案が通ると歳入に2兆6千億円の穴が開く。そのうち地方税収分の9千億円について、民主党は国直轄の公共事業の地方負担をゼロにすることで穴埋めすると言っている。

その予算政策変更が、しかしながら個別具体的に積み上げられてない現状があり、だから地方自治体の不安を招き、必ずしも民主党の完全優勢の状況を作り得ておらず、そこに伊吹文明の「つなぎ法案」の横暴がつけ入る隙がある。そういう最低限の政治認識の前提を『TVタックル』のスタッフと視聴者は持っているのだ。その上でスタジオの与野党の政治家にディベートを戦わさせ、詭弁や詐術を含めた説得力と訴求力を競わせているのである。最低限の知識の前提がないと、ディベートを聞いても何の話か全く分からないだろう。「わかりやすい政治ブログ」を大衆に発信している者は、果たしてその最低限の知識を持っているのだろうか。ブログ左翼の記事を見ながら思うのは、そうした「床屋政談」レベルの最低限の知識もなく、野党側と改革派のプロパガンダである「政官業の癒着」攻撃の一般論だけで問題を論じ、自分は大衆やB層よりも上なのだと思い上がっている実態があることである。

ゴミだのクズだのとブログ左翼が罵倒するTVの政治番組や新聞の政治記事でも、そこには最低限の報道と解説の中身がある。どれほど歪曲と操作があっても、事実の紹介や背景の解説の中身がなければ、人はそれを「報道」とは看做さないし視聴率も取れない。目線が「上から」だとか「下から」だとかは関係のない問題だ。ビートたけしは「下から目線」だが田原総一朗は「上から目線」なのだろうか。NHKは「上から目線」でわかりにくいが、民放は「下から目線」でわかりやすいのか。BLOGも同じだ。基本的に情報の中身のあるところに人は集まる。BLOGの閲読にも読者のコストはかかっている。暇潰しでも対象の選択と選別はある。情報の価値のないBLOGには人は集まらない。政治を論じて「わかりやすいBLOG」というのは、情報の中身があって、それが論理的に整理されていて、マスコミ報道とは異なる有意味な視点が提供されていたり、本質的な掘り下げの解読が加えられているBLOGのことを言うのだろう。

そうした中身が何もなく、ただ「下から目線」と「緩やかな」が連呼されているだけの「政治ブログ」が、一般大衆にとって「わかりやすい」BLOGであるはずがない。それを「わかりやすい」と言うのは、「緩やかな」「下から目線」の宗教の信者だけである。以上、無意味なBLOG論に無駄な字数を費やしたが、橋本徹の問題について「上から目線」で考察してみよう。今度の知事選で橋下徹に投票した大阪府民も、昨年夏の参院選で民主党に投票した大阪府民も同じ有権者である。昨年夏の有権者を「正しい民意を示した市民」と言い、今回の有権者を「マスコミに騙されたB層」だと貶めて括るのは、やはり少し無理がある見方だろう。同じ有権者が昨年は民主党に投票し、今回は橋下徹に投票している。同じことは昨年の東京の知事選と参院選についても言い得ていて、同じ都民が春は石原慎太郎を支持し、夏は民主党を支持している。一見、アンビバレントで矛盾した選択のように見えるこの投票行動は、どのように合理的に説明できるのだろうか。

最初に結論から言うと、私は、有権者である市民大衆は、米国の国民多数と同じように「変革」を求めているのだと思う。政治に変化を渇望している。変化を強く訴えた方が勝つ。2年半前の衆院選もそうだったし、半年前の参院選もそうだった。窮迫する市民生活と疲弊する地域経済を再建させるべく、現状の経済政策の転換を訴えた方が有権者の心を掴む。「変える」ことを言い、「変える」イメージづけに成功した方が勝つ。昨年の夏に民主党が勝利したのは、「生活」を政策の中心に据え、自公政権の年金問題を含む「生活不在」の政策の現状を批判して、それを政権交代で根本から転換させることを約束したからである。逆に安倍自民党の側は、経済や生活のところで現状を「変える」政策主張をできなかった。憲法を変えるとは言ったが、それは国民の求める「変化」ではなかった。生活の不安に怯える国民が求めているのは、イデオロギーではなく経済と生活の政策である。そこを安倍晋三は読み違えた。変える必要のないものを無理に変えると言って失敗した。

国政選挙の場合はそうなる。首長選挙の場合は、政党の選択ではないから、政策よりも人物のイメージで「変革」を説得しなければならない。その場合、「変革」のイメージは、何よりも個性の強さによって訴求される。石原慎太郎と浅野史郎、橋下徹と熊谷貞俊、どちらが「変革」の印象が強烈か。どちらの個性が「変革」の時代のリーダーに相応しいと思うか。市民大衆は所得が減って生活が苦しいのであり、将来に深刻な不安を抱えているのであり、税金を無駄遣いしている霞ヶ関や府庁の公務員を憎悪しているのであり、選挙を「現実政治の転換」の機会にしたいと思って一票を入れるのだ。詳しく報道を見てないが、聞くところでは、橋下徹の選挙戦は、具体的な政策の話は何も言わず(言えず)、ただ「大阪を変える、大阪を変える」とのみワンフレーズで絶叫していたと言われている。その作戦が奏功したということは、大阪府民が「大阪を変える」と強く言ってくれる指導者を待望していたということになるだろう。「変革」の印象を与える強烈な個性を持ったリーダーが大衆から支持を集める。今はそういう時代だ。

実にヒトラーが台頭した1930年代のドイツと同じ状況に日本はある。今後も、選挙では、競合他者と比較してより過激な口調で「旧体制の破壊」を訴える候補や勢力が票を獲得するだろう。そのときは、いわゆるポピュリズムの手法が駆使され、東国原英夫的な、旧来のエリート像とは隔絶した「庶民的」なイメージを振り撒くシンボルが担がれ、従来の政治行政路線からの断絶と変革が主張されることだろう。失言や不倫などの瑕疵を逆に売り物にするようなアウトロー的個性を標榜し、そして何よりテレビで顔を売って図々しく出世した者が、特に人物を選ぶ首長選挙では集票できる候補になるだろう。「変革」が第一のキーワードであり、「強い個性」が第二のキーワードである。一般大衆の心をとらえるのは、政治の変革を過激に訴えて、強い個性をアピールする者だ。自民党や、改革派が、この法則に従って次の選挙戦術を考えてくるのは間違いない。だから、自民党や新自由主義に反対する側が同じ手法を採用しろとは私は言わないが、少なくとも戦略を考える上で参考にはしないといけない。

それは、何度も言っているが、
指導者を選ぶことである。指導者を探すことだ。新自由主義に反対する側や憲法改正に反対する側は、それを推進する右派や改革派に較べて人物が少ない。シンボルとなるリーダーの人的資源がきわめて少ない。内橋克人、筑紫哲也、..他に誰がいるのか。二人とも70代だ。辺見庸はシンボルではあるがリーダーとなることは拒絶した。人の生き方だから仕方ない。他に誰がいるのか。いない。有能な指導者を一刻も早く探し出す必要がある。できれば、バラクオバマのような最適の人物を探し出して、大衆が求める「変革」を憲法9条と憲法25条にアラインさせた形で実現する政治指導者に据えないといけない。市民大衆が求めているものが分かったのだから、府知事選の結果は無意味とは言えない。民主党だから選挙に勝てるのではない。「変革」の要求に応える姿勢をよく見せた方が選挙に勝つのだ。キーワードは「わかりやすさ」ではない。「変革」と「強烈な個性」である。どれほどわかりやすく訴えても、「変革」を訴えずに「緩やかなネットワーク」を訴えたら、その候補は大衆の支持を受けないだろう。
大衆は現状の継続を求めていない。大衆は断絶とリセットを求めている。そして大衆は救済を求めていて、救済へと導いてくれる強い指導者の出現を求めている。
【ネット市民社会】
私は自分のブログの記事が、「身に危害が及ばない安全な場所で自己完結気味に言葉遊びをしているだけの」情報発信だとは思っていない。ブログは実名で公開しているものであり、現実の世界もネットの世界も、実在の社会空間として私にとってはそこには何も区別はない。
BLOGで政治に関する情報を発信すれば、少なからぬ誹謗中傷のリターンを受けるのはやむを得ないが、2004年から立ち上がった日本のBLOG世界において、現在までにブログほど左右の両翼から激烈で執拗な誹謗中傷と揶揄罵倒の攻撃を浴びせられ続けたBLOGは他になかった。
右翼の攻撃は一部の病的な粘着系を除いて2006年の春までに終息したが、左翼からの攻撃は2006年から2007年にかけて激しさを増し、未だに衰える気配を見せない。彼らにとってブログはソ連たるコミュニティのトロツキーなのであり、トロツキーが生きている限り、枕を高くして眠れないのだ。
揶揄、罵倒、デマ、誹謗中傷の扇動とコメント欄を使った悪質な幇助、ありとあらゆる卑劣な行為がブログに対して組織的に仕掛けられ、ブログを貶め卑しめる迫害行為が動員された。それは常態化し、ブログ左翼のコミュニティでは日常の挨拶行為のようになっていて、誰も違和感を感じていなかった。
ネットの誹謗中傷や嫌がらせ行為は、多少とも被害を受ける側に立って、その実相を理解できる。被害者の立場にならない間は、単なるゲームであり、面白い余興であり、ヒマ潰しのオカズであり、ネットのコンテンツである。顔も知らぬ他人の不幸をネットで見ることほど楽しいことは他にないのだ。
そして政治は、その暴力と犯罪に正当化の口実と「正義」の共同幻想を与える。彼らがやっていることは、自分たちの先祖である1930年代のソ連の共産主義者や1960年代の中国の共産主義者がやったことと全く同じで、DNAの命令に従って何度でも同じ行動を繰り返すのである。まさに「病気」なのだ。