今度は東京の足立区で一家無理心中の事件があり、52歳の父親が49歳の妻と85歳の母親を襲い、刃渡り20cmのナタを頭蓋に振り下ろして殺害、15歳の次男は両手首を切断されて意識不明の重体となった。父親は左手を切って自殺。新聞では生活苦が原因だと報道されている。中古機械の修理と販売をしていた一家の経営は思わしくなく、作業所である家の一階のシャッターは閉まったままで、時おり家の中で言い争う声を聞いていた近所の人は、一家がどうやって生計を立てているか心配していたと言う。昨夜のテレビのニュースでは次男の友人の証言が出て、次男が中学校の給食費を滞納していて、給食を食べずに我慢していた話が紹介されていた。一家は難を逃れた長男を含む5人家族で、近所の者や長男の証言では、生活苦になる前は仲のいい家庭であり、事件の前の晩も普段と変わらぬ様子で家族で食事をしていた。
1月に続いて同じ事件が起きている。2/10には横浜で、2/12には藤沢で無理心中の事件が起きている。これからも続くだろう。多くの者が少しづつ追い詰められ、弱い者から逃げ場を失って行く。生き延びられなくなる。破滅を強いられる。救済を求めている人は多いが、人を救済するべく立ち上がる者はいない。弱者の足下を見てさらに収奪するか、弱者を騙して搾取を続けようとする者ばかりだ。戦場の光景だ。弱い者は襲われて、持っている財産を奪われて、場合によっては生命を奪われるのである。戦場に置かれた弱者が何の被害もなく助かることはないのだ。どうして立ち上がって救世主になる者が一人もいないのだろうと思うけれど、一人も出て来ない。それが出現するはずのインターネットを毎日覗き込んでいるけれど、奇跡は起きてくれない。有能な指導者が現れない。政治を変革する
リーダーがいつまで経っても出て来ない。
ネットの中にBLOGの数は多くあるけれど、心に響く言葉を届けるものがない。心に響く言葉を届けられる
指導者が出てきても、それを邪魔する人間とか、それを抑えつける思想ばかりが多く、きっと無駄で無意味な苦労ばかりさせられるだろう。だが、勇気を奮って自信を持って出て来て欲しい。BLOGを見ていて思うことは、この人は何を大学で勉強したのだろう、どんな専門的な経験や技能を社会で積んできたのだろうということで、それが何もわからない顔の無いBLOGばかりが多い。日本人は高校3年間はよく勉強するが、大学4年間をあまり勉強せずに過ごしてしまう。勿体ないことだと思う。日本の教育では、基本的に中等教育は高等教育を受ける能力を養うべく設計されていて、大学で学ぶものこそが学問なのに、多くの青年はその意義を見失って機会を溝に捨てている。BLOGは顔は見えないが、その人間が大学で勉強した人間かどうかは記事を読めばわかる。
田中宇の記事を読めば、この人が大学で経済学を勉強した人間だということがわかる。大学で勉強しただけでなく、大学で学んだものを自分の中で大事にして、身につけた財産である概念や方法をその後の社会人の人生の中でさらに鍛えて、知的関心のエンジンにしていたことがわかる。私は経済学部ではなく法学部に入って、どの大学でも同じように法学部には法律学と政治学のコースがあり、どうせ法曹の専門家になるのではなく普通の勤め人になるのだからと思い、自分の興味のある政治学の方を専門に選んだ。それは教養課程で学ばされる
社会科学の基礎の学問の延長線上にあり、
社会科学の勉強を深めるという意味では具合のよい環境が与えられていた。政治は経済よりも専門性の度合いの低い領域には違いないが、田中宇が複雑な国際経済を整理して解説を提供できるように、私も大学で
政治学を学んだ者として恥ずかしくない程度に、眼前の政治現象に考察と分析を加えなくてはいけない。
その気負いはあるし、日本の政治の捕捉と解説において、福岡政行や山口二郎に較べて自分が特に劣っているとは思わない。経済学の場合は、高度に複雑で錯綜したように見える過程や事象を、概念に解きほぐし法則性に照らして了解させる能力が問われる。政治学の場合は、むしろ逆に、一見、単純で簡単に見える政治の行為や言説の中に、歴史的な意味や背景が潜み、隠された意図や利害が投影されている真実があり、その構造が明らかにされなければならない。政治においては、「わかりやすい主張」ほど実は危険で要注意な対象なのであり、政治学のイデオロギー分析の方法によって解析され暴露される必要があるのである。それは田中宇のエコノミクスと同じく、やはり専門的な技能と呼べる知識の中身を持ったものであり、すなわち分析と解読がよくできる人間とできない人間がいる。大新聞の政治記者を長くやって、永田町の世界を裏の裏まで知りつくしているからと言って、それで現実政治がよく分析できるわけではない。
今年は12回目の
菜の花忌。司馬先生、天国で元気にしておられますか。足立区の無理心中の事件を見て、どう思われますか。先生は、死ぬ間際に、住専処理のときでしたが、確か「週刊朝日」の誌上で、今のこの日本の事態は、太平洋戦争の破滅に突入して行ったあの時代よりももっと絶望的で悪いと言っておられました。その言葉がずっと念頭にあり、年を追って実感が増すばかりですが、もっと悪いという意味は、日本人が3百万人以上死ぬという意味でしょうか。それとも日本という国がなくなる、民族が滅亡して歴史から消えるという意味でしょうか。3百万人くらい死ねば、1945年のときのように、もう一度再生するということはあるのでしょうか。滅亡の方は、すでに何やらリアリティがあって、日本の経済はほとんど固有の実体が無くなった感じがします。昔のプエルトリコとかドミニカの経済の姿のように見えます。歴史ある通貨の円も形ばかりになってきました。政治の方も、国の政策は全て「年次改革要望書」の具体化ばかりになっています。
そこへ米軍が来て、自衛隊が事実上なくなって、米軍日本部隊になり、昔の第一次大戦の欧州戦線で戦った英領インド軍のようになり、だからプエルトリコの次は、最後はきっとハワイのようになるのでしょう。私は皇室のことが心配で、天皇陛下と皇后陛下のご健康のことが心配です。日本を滅亡に追い込むためには、彼らは皇室を何とかしなくてはならず、皇室をガタガタにしようと醜聞とデマ攻撃を仕掛けるでしょうし、脱構築左翼がそれに便乗して騒ぐでしょう。滅亡を防ぐために、再生の転機を得るために、きっと流血の事態が必要なのでしょうね。流血の悲劇にせよ、国家の滅亡にせよ、私はそのときまで自分が生きているとは思っていませんでしたが、どうやら生きている間に起こりそうな気がします。愛国の指導者が出て来ませんね。権力の中にいるのは愚劣な売国の指導者ばかりです。救国の
カリスマが必要なのに、無能な人間ばかりが無闇に多く、自分勝手に騒いでいます。
天におられるのだから、龍馬のような者を一名こちらに遣わしていただけませんか。役割を終えても、無理にそちらに送り返すことはせず、それは彼に気の毒ですから、身代わりに私がそちらに行ってもかまいません。薬害肝炎訴訟の原告代表の山口美智子の訴えには心を打たれましたが、それなりに楽しい思いもしてきたし、人間にはそれよりもっと大事なものがあるという話がわかります。国家の滅亡など見たくないし、戦争なのか何なのか知りませんが、3百万人死ぬ悲劇が日本人に起きたときは、私はその中に必ず含まれているでしょう。ナチスの絶滅収容所でユダヤ人が順番に殺されて行くのを見るように、山梨で仙台で東京で次々に無理心中の犠牲があり、次は自分の番だと思うようになりました。同じ死ぬのなら、ただ順番で黙ってガス室に入るより、蜂起して銃撃を受けて死んだ方がましです。新自由主義を倒して回天の扉を押し開ける一人の英雄を天から遣わして下さい。
【ETV「私のこだわり人物殿-白川静」】
昨夜、何気なしにテレビのチャンネルを回していたら、NHKの教育放送で白川静の特集(「知るを楽しむ-私のこだわり人物伝」)を放送していた。第2回目の放送だった。こんな番組をやっているとは知らず、第1回目を見逃したことが残念で堪らないが、まだ来週と再来週の2回分が残っている。案内するのは松岡正剛で、なかなかうまく構成してナビゲートしていた。
白川静の巨人ぶりについては多少は情報を持っていたが、これほどまでに偉大な学者とは知らかったし、最近、どんどん評価が上がっている。昨日は途中で白川静の孔子論が紹介されていて、初めて聞く白川静の学説に、身を乗り出してテレビの画面に見入ってしまった。面白い。孤高の学者であり、突出した巨峰であり、そしてやはり良い意味での「京都学派」の人である。
久しぶりに学問の話で興奮させられた。学問の好きな人は、2/19(火)と2/26(火)の放送をぜひ見ていただきたい。昔は白川静のような学者が日本にいた。少なからずいた。独学で、超然として、研究領域の奥底を極めつくしたような哲人の人がいた。日本の学者の独特のスタイルがあった。碩学という言葉がぴったり似合う人物像が何人もいた。今はいない。アカデミーが駄目だ。
尊敬できる立派な先生がいない。どれもこれもレベルが低い。昨日、松岡正剛の話を聞いていて面白かったのは、松岡正剛が言うときの「アカデミー」という言葉は、私が10年前にHPで使った「アカデミー」と同じ意味で使っていたということだ。加藤哲郎教授と往復書簡したときの「アカデミー」の言葉であり、あそこでも「アカデミー」の言葉は一つのイッシューだった。それは東大と岩波を中心とする現行アカデミー体制(の官僚主義)に対して批判の意味を含む言葉である。
批判経済学という言葉があるのだから、その意味で、あのHPは批判政治学だった。ブログも。