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by thessalonike4
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奈良紀行 2 - 鎮護国家の仏教  
b0087409_15344826.jpg形(かたち)は京都にある。しかし、心(こころ)は奈良にある。形の美しさではなく、心を求めるのであれば、自分の心と向かい合わせる心を求めるのであれば、新幹線を降りた旅人は京都駅からそのまま出口に出るのではなく、近鉄線に乗り換えて奈良に向かう必要がある。宇治川と木津川を越えて南下しなくてはならない。往きも帰りも新幹線は満席で混雑していた。大量の観光客を東京から京都へ運んでいる。しかし、乗り換えた近鉄線は空席が多く、四両編成の特急電車の一両がほぼ空席だった。格差社会のいま、日本経済も格差経済として構造が固定して循環している。格差経済は二重経済であり、景気よく金を回す大企業や投資家や外国資本の経済と、金がなく切り詰めと資金繰りに追われる貧乏な中小企業と一般庶民の経済の二つに分かれる。新幹線と京都の混雑は「勝ち組」の富裕経済の消費を象徴しているようだ。 



b0087409_1537164.jpg東大寺の華厳を含めて奈良の南都六宗の仏教は、宗教と言うよりも学問に近い性格と趣向があり、私はそのことで奈良仏教に親近感を覚えるが、何となく今度の旅でもそれを実感させられたような気がする。創建されたときの東大寺は、当時の国立の総合大学であり、現在で言えば東京大学がそれに該当する。明治国家が創立した東京帝国大学と奈良朝が創建した東大寺はまさに同じ性格の国家学術機関で、国家の経営を担う官僚と技術者を養成し、最先端の学術研究をする研究機関だった。歴史的な環境と使命という観点から見て、両者は実によく似ている。私の時代はそうだったが、地方の国立大学に講師や助教授で赴任して来る若い研究者は東大の大学院が供給元として第一だった。私の大学は地理的な事情もあって京大出身が多く、東大閥と京大閥で勢力が拮抗していたが、全国的に見ればそれは稀で、権勢のある東大教授のお弟子さんが多数を占めていた。

b0087409_1534388.jpg 当時の東大寺が全く同じで、全国60州に建立された国分寺に詰める僧侶は中央の東大寺が教育して派遣した。各国分寺には20人の僧侶が配置され、すなわち60ヵ国で1200人の学僧の教育と研修を東大寺が一手に引き受けた勘定になる。という内容のことが、森本公穣氏から拝領した春秋社の『世界に開け華厳の花』の中に書いてある。この本の著者は前東大寺別当の森本公誠氏であり、森本公穣氏のお父上になる。森本公誠氏についてはネットの中にも多く情報がある。本の題名はやや宗教臭い感じがするが、中身は宗教書と言うよりも学術書か教養書の分類であり、特に文章がシュアでステイブルで素晴らしい。知識人の文章であり、読みやすく分かりやすい。最近は、特に若い研究者で、このような堅実で端正な学問の文章を書ける学者がいなくなった。奇矯な文体で無知をゴマカしたり、脱構築の虚仮威しで粉飾した文章とか、酒井直樹や子安宣邦的な日本語破壊に耽っている者が多い。

b0087409_15345945.jpg華厳に代表される奈良仏教は鎮護国家の仏教と呼ばれる。我々が大学で日本思想史の講義を受けた頃、鎮護国家の仏教は、言わば黎明期の助走路的な仏教で、天台真言から鎌倉仏教へと続くメインストリームの序論的な位置づけを与えられた仏教の印象だった。『丸山真男講義録』の第4冊(1964年:日本政治思想史)においても、日本仏教思想史を概論する主たる関心は「非呪術化」であり、主役は鎌倉仏教の親鸞であり、日本仏教の「非呪術化」へのプロセスとして、聖徳太子の十七条憲法以来の流れが位置づけられる構成に整理されている。社会科学の方法としてのウェーバーの影響が絶大であった時代の背景や学界の状況が窺われる。親鸞の絶対他力信仰が、プロテスタンティズムとの類似性に着目されて議論されていた時期であり、思想の発展を測定する基準としてウェーバーの「脱魔術化」が有力な方法的地位を占めていた。その「脱魔術化」の検証においては、シンクレティズムの検出が問題となる。

b0087409_15351260.jpg例えば、日本古来の土着信仰(古神道)の要素が多く包含されている仏教の思想性は、シンクレティズム(折衷主義)のリトマス試験紙で不合格の裁定になる。世俗化せずに現世拒否の純度が高い思想性に高い評点が与えられる。ウェーバーの宗教社会学には明らかにそうした視角的な特徴と傾向がある。しかし、時代が移り変わった今日の地点から見たとき、ウェーバー的な「脱魔術化」の議論は一神教の原理主義を積極的に評価する立場のようにも映る。私が高校生の頃、古典Ⅱの教科書に『歎異抄』の悪人正機説が載っていて、古文の教師が悪戦苦闘しながら読解を試みていた授業の風景があった。果たして、現在も高校の授業で教えているだろうか。あのとき、確か、教科書には道元の『正法眼蔵』の一節も載っていたように思うが、教師はそちらの方は重要ではないという感じで、サラリと流して終わっていた。親鸞の悪人正機説を必要十分に論じられなければインテリとして失格という緊張感が高校の教師たちにも漂っていた時代だった。

b0087409_1621338.jpg一神教の価値が後退し、多神教の思想性が見直されている現在、シンクレティズムの検出基準や神仏習合への否定的態度も見直されているに違いない。鎮護国家の仏教についても、従来とは異なる視角からのアプローチが必要な時期かも知れないという予感を自然に抱く。鎌倉仏教への展開は、国家共同体のシステムが出来上がって、無論、その国家共同体の内実や形態には変容と転換があるのだろうし、マルクス的な観点からすれば、古代荘園奴隷体制から中世村落共同体体制への転換と発展として捉えられるのだろうが、ともかく出来上がった国家共同体の前提の上で個人の救済に注目する方向へと収斂しているように見える。禅宗の場合は武士、真宗の場合は農民。個人の救済宗教としての仏教の姿。現在の日本仏教も基本的にその延長にあり、五木寛之や瀬戸内寂聴の説法もその地平に立っている。が、今の時代は、日本という国が滅亡するかも知れないとか、民族的規模で日本人が死滅するかも知れないという危機感に苛まれている時代である。

b0087409_15354151.jpg全体の危機と個の危機が一つの問題として意識され観想されている時代である。だから、個人の救済においても、その救済の思想が全体のへの関心を伴ったものでなければ意味を失う時代になりつつある。例えば、五木寛之は、癌になった人間はもう助からないのだから、助かるか助からないかはどうしようもないことなのだから、無理にもがき苦しむのではなくて、その運命を受け入れて、ありのまま自然に従えという具合に人を諭す。それも道理だろう。けれども、一方で、新薬や診断は日毎に医療技術が進み、早期発見できて適切な治療が受けられれば命が助かる現実があり、その現実の裏側に、働いても働いても収入が無いために、健康保険証を持つことができず、体が悪くなっても病院に行けず、癌だと診断されても治療を諦めている人間がいる。手術も投薬もなく、末期癌の苦痛に身悶えて死んで行っている大勢の日本人がいる。政府はその現実を見ながら、社会保障費を毎年2200億円削減している。

b0087409_153530100.jpg果たして、五木寛之の「運命を受け入れよ」という諦観説法は、彼らワーキングプアの癌患者の心に届くのだろうか。仏教の思想は、本来的に五木寛之的であり、釈迦の原点に遡ってそれを否定しない。一切の苦痛や矛盾は自己の観念から惹起生成されるのであり、邪念を払って観念を切り替えれば、世界観の思考回路をスイッチすれば、苦痛や矛盾はそのまま問題解決する。そう説得する。だが、救える者は救う必要があるのだ。鎮護国家の仏教は、学問の仏教であると同時に国家への関心を持つ仏教であるに違いなく、その歴史(奈良時代)も、宗教の範疇よりもシステムの範疇の中で生きている。システムへの関心は本来的なものだ。死ぬ間際、司馬遼太郎が山折哲雄と対談してNHKで放送された番組の中で、国家の「圧搾空気」という話をしていた。国家は基礎工事もなしに地面の上にベチャッと建設されるものではなく、必ず圧搾された地盤の基礎の上に屋台が建築されるものだと言っている。その「基礎」が欧州各国では国旗の十字として描かれている。

b0087409_1535527.jpg古代日本の場合、その「圧搾空気」の「基礎」は鎮護国家の仏教であり、大仏鋳造と東大寺建立の国家事業こそ「基礎工事」であり、その上に建築された「屋台」が律令制ということになる。明治国家からスタートした近代日本、1945年の敗戦からそれを引き継いだ現在の日本国、それが今、深刻な行き詰まりを見せ、国家の基礎が揺らいでいる。屋台が崩壊しようとしている。国家の責任ある者が責任を逃げ、任務を果たさず、徴収した税金を私物化して食い逃げ持ち逃げしている。国を外国に売り渡し、私益のみ漁り、無責任を通して遊び呆けている。清朝末期の政府機関や権力機関と同じで、そこにいる人間が国家を経営する仕事をしていない。国会も政府も、そこで権力を握っている人間が日本国を代表せず、日本国民を代表していない。代表していないどころではない。彼らにとって政府とは、詐欺集団の福永法源の「法の華三法行」と同じだ。国民を騙して金を巻き上げる合法的で特権的な詐欺収奪装置だ。本格的に「基礎工事」をやり直して「屋台」を建て直す必要がある。

リセットの後、次に国家の総合大学を作るときは、国家職員と技術者を養成する教育研究機関を作るときは、「圧搾空気」を意識して、必ずその創建事業に国民が自発的に参加する仕組みをアイディアするべきだ。

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by thessalonike4 | 2008-03-13 23:30 | 奈良紀行
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