本棚の隅に東京書籍発行の『日本史図説』があり、その中に「平城京全景復元模型」の写真が載っていて、薬師寺の周辺を確認したが、やはり参道は配置されていなかった。本当に無かったのか。梅原猛が法隆寺の中門の中央に柱が立つ特異な伽藍構造に注目して、聖徳太子の怨霊を封じ込める設計意図を問題提起したのに匹敵する大きな謎の発見ではないかと一人で興奮していたが、薬師寺以外の南都七大寺の他の寺にも参道の設計配置がない。例えば、
興福寺も、南大門から真っすぐに南下すると猿沢池に池ポチャになってしまう。池の南側から南大門と中金堂を直望し、右の五重塔と左の西金堂を視界両脇に入れるという景観は悪くないと思われるが、南大門に向かうには猿沢池を迂回しなくてはならず、アプローチが直線ではなく弧になってしまう。猿沢池の南側には元興寺が隣接している。直進の参道が十分に配慮されているのは、東大寺と、そして恐らく西大寺だけだ。
平城京寺院の参道に関する情報がないので、理由を勝手に考えなければならないが、平城京建設の後で建立された寺か、それとも移転された寺かで違うのかも知れない。興福寺も薬師寺も飛鳥から移された寺である。元興寺もそうだ。大安寺もそうだ。元興寺は蘇我馬子が飛鳥に建てた。大安寺は聖徳太子の意思を受けて舒明天皇が百済川の畔に建てた。興福寺は藤原鎌足の妻の鏡大王が最初に建てた藤原氏の氏寺である。薬師寺は天武天皇の発願で飛鳥に建てられた由緒ある寺。南都七大寺のうち法隆寺を除く六大寺が平城京の条坊の中にあるが、平城京が造営された後で建立されたのは東大寺と西大寺の二寺だけで、後の四寺は飛鳥やそれ以外の地から平城京に移されている。蘇我馬子、舒明天皇、天武天皇、藤原鎌足。どれも飛鳥時代のビッグネームであり、新築の平城京の格式を整えるためにも、それら由緒あるブランドの大寺を新都の内部に包摂する必要があったのだろう。
ここから先は私の想像だが、移転された寺は、移転こそが大事で、
平城京の都市計画に合わせて条坊の枡目の中に無理やり押し込められ、寺独自のオリジナルな空間設計の自由を奪われて、単に伽藍様式だけに独創を許されたのではないか。飛鳥の寺々にとって、その移転は、言わば一戸建からマンションへの引越しであり、平城京という集合住宅の中の規格と広さが決まった窮屈な一角に押し込められる遍歴だったに違いない。そのことで平城京は繁栄し、寺も官寺として生き延びられたが、薬師寺の雰囲気を見ていると、どうも心なしか意にそぐわぬ移転に内心の不満を引き摺っていたのではないかという憶測を持ってしまう。裏から裏への進入参観などあり得ない話だ。ご本尊の薬師如来と創建者の天武帝に対する冒瀆である。近鉄西ノ京駅の位置を見ても、江戸期以前から北の興楽門が参拝者の玄関になっていた気配があり、南門を裏口として閉ざしていた感がある。不遇に対する偏屈、暗黙の抵抗なのではないか。
現在の奈良の町は江戸期に原型ができている。町の中心地はどこかと言えば、近鉄奈良駅、すなわち東向通り商店街が登大路に突き当たる位置になる。市街地で地価が最も高いのはその近辺だろう。江戸期以降の奈良の町を一言で言えば「東大寺の門前町」である。否、平安京に遷都された8世紀末にまで遡って、そこから後の奈良は「東大寺の門前町」として歴史を紡いできた。平城京の面影はすっかり消えている。それは京都も基本的に同じで、四条河原町を中心とする都市として今日があるのは、恐らく八坂神社に奉納する祇園祭りがあったからで、中世以降の町衆の歴史が現在の京都の骨格を形成しているように思われる。平安京は碁盤の目だけに残っている。奈良では東大寺の存在が圧倒的に大きい。さて、
興福寺が再興されたとき、参拝者である観光客は新しい興福寺にどのようにアプローチするのだろう。興福寺も現在は境内の裏手が正門のようになっている。近鉄奈良駅を降りて、登大路を少し歩き、五重塔を仰ぎ見ながら接近する。
足元に散らばる鹿の糞に注意しながら、阿修羅像が待つ国宝館に歩いて行くのが現在の経路である。その経路を南大門からの周遊進路に切り替えるのは至難の技だろう。どうやって客を猿沢池まで引っ張るのか。奈良は東大寺の門前町としてのアーキテクチャが固まっていて、訪れた旅人は必ず近鉄奈良駅から奈良公園へと歩く。奈良公園で旅人を待っているのは大仏である。公園徘徊の最奥が二月堂舞台であり、そこから近鉄奈良駅へ引き返す。その往復が基本にあり、周辺にある風景や施設、サブセットである興福寺や国立博物館を組み合わせて楽しむのがコースとして設定され概念されている。南大門から興福寺に入る経路はその概念とは整合しない。齟齬が生じる。そうすると、薬師寺のように、やはり裏から裏への進入経路にならざるを得ない。ピカピカの天平伽藍に裏から入って裏から拝む格好になる。新しく完成した中金堂への入場には料金を取るだろうが、券売所はどこに設けられるのだろう。中金堂は中門と繋がって回廊で囲まれる。回廊の西側だろうか。
壮麗な天平伽藍の再興が薬師寺に続いて興福寺でも始まっているが、実は写経勧進による寺院の復興事業だけでなく、政府と自治体による公共事業として平城京伽藍の復興事業が大規模に進められている。1998年の平城宮朱雀門の復元がそれであり、遷都1300年記念事業の看板としてお披露目が予定されている平城宮第一次大極殿の造営がそれに続く。ゼネコンの巨大なプレハブ小屋は唐招提寺だけではなかった。第一次と言うからには第二次大極殿の復元と着工もマスタープランの中にあるのだろう。平城宮の再興事業を行っている主体は文科省と奈良県と奈良市だろうと思われるが、発掘と復元の事業が予想以上に大規模で、現在は近鉄線の車窓から見える茫漠とした
平原(空き地)の全域を、朱と緑の「青丹よし」の伽藍で埋め尽くす気なのだろうかと思えてきた。現在の知事は、遷都1300年記念事業の概要を変更して、パビリオン林立のお祭りから
国交省主管の国営公園運営に変えたというニュースを見たが、国交省の予算浪費が政治の焦点になって関心を惹く今日、何やら嫌な予感がする。
平城宮再興を事業とする独立行政法人ができて、道路特定財源の財布から巨額の予算を支出して、あの伽藍もこの伽藍もと、永久に建てまくる魂胆だったのではないのか。文化庁(文科省)ではカネが流れるパイプが細いので、県知事がパトロンを国交省に変えたのではないのか。そんな意地悪な想像がはたらく。高田好胤の時代に、薬師寺の金堂建設のために集めた資金が十億円と言われている。比較はできないが、巨大な天平伽藍を一棟建てるのに数十億の資金が要るだろう。高田好胤の薬師寺再興事業はドラマとなり、事業を通じて出来上がったのは、単に壮麗な伽藍建築だけでなく、設計と工法の技術とノウハウであり、蘇生され蓄積された伝統建築の技術を連続して事業応用しようとする欲望もまた大きかったに違いない。そこに建てる目標と資金があれば、インダストリができる。インダストリが回る。政府とゼネコンの古代建築プロジェクトのインダストリが生きて拡大する。穿った見方かも知れないが、そういう感覚を捨てきれない。平城京に次々と再興される煌びやかな天平伽藍が、いわゆる「政官業」の公共事業のハコモノに見える。
興福寺や薬師寺の復興事業には国からの補助金は一円も出てないのだろうか。そのことと関連するかどうか、五木寛之が『百寺巡礼』で薬師寺を訪れたとき、例のアンドレ・マルローの言葉を紹介した。「
建造物は、建造されたときの姿で見られる権利を有する」。高田好胤はこのマルローの言葉に加勢を得て、西塔建設反対論の世論を押し切って再興事業を推進した。五木寛之はその問題について宗教家としても文学者としても特にコメントを入れなかった。反対論の世論は当時としては当然だっただろう。歴史ある東塔の横に新築の西塔が立つと景観が壊れる。しかし、さらに壮麗な金堂が建ち、講堂が建った現在、もはや論争には嘗ての意味はなく、そして古代伽藍の再建運動は薬師寺を超えて興福寺や平城宮をインボルブして常態的に軌道定置されたムーブメントになっている。高田好胤とマルローの思想と運動は正論として勝利し定着した。国家の予算に余裕があれば、イニシャルコストとランニングコストを賄える資金があれば、平城宮は710年の原状を全く回復するだろう。誰もそれを止めようとはしないだろう。奈良は「あおによし」の平城京に戻る。
だが、本当にそれでいいか。マルローの言葉を五木寛之が紹介したとき、私の頭に浮かんだのは堀田善衛の『
インドで考えたこと』だった。歴史と永遠に対する省察。歴史とは何か、歴史的な思惟とは何かという問題。ただ念頭に浮かんだだけで、そこから先に思考は進まなかったが、堀田善衛は高田好胤とマルローの主張に対してどう思っただろうか。確かに、西塔も金堂も、300年経ち400年経てば東塔と同じ姿になる。興福寺の新しい中金堂も同じ。300年経てば五重塔や東金堂と同じになる。朱色は落ちて黒っぽい景観になるだろう。実は「青丹よし」の「青」の意味には別の説もある。平城京の伽藍の屋根の青瓦の意味だという説もある。薬師寺の僧侶が法話の中でそれを連子窓の顔料の緑だと説明したのは、伽藍の彩色を強調する意図があり、高田好胤の主張を象徴的に表現して我々に説得していたのかも知れない。同じ僧侶が、NHKの「国宝薬師寺展」を案内する放送で、光背を外されて背中を出した日光と月光の二体の菩薩像を拭いていた。今回の日光と月光の東京での展示は、通常は見ることのできない二仏の後ろ姿を観察できるところが最大の目玉になっている。
番組の中で、背中を雑巾で拭きながら、僧侶は「後ろ姿が素晴らしい」と感嘆の声を上げていた。後ろから見る。薬師寺は後ろから見る。そのことの暗喩ではないかと、私はそう思った。