一昨日、「報道ステーション」を見ていたら、八戸で母親に首を絞められて殺された8歳の男の子の「おかあさん」の詩の全文が映像で紹介されていた。事件のことや詩がコンクールで入賞していた事実は知っていたが、詩の中身はテレビで初めて見た。一報をネットで知ったときは、当然、強い関心を惹き起こされたが、ネットのニュース記事で紹介されているであろう詩の内容までは踏み込む気になれず、見出しだけを流し見て、親子の事情を書いているかも知れない記事の詳細も確認しようとはしなかった。心が苦しくて傷むからである。だが、テレビは有無を言わせず見させてくる。その詩がとてもよかった。驚くほど才能を感じる詩で、小学生の国語の教科書にそのまま載っていたとしても何の違和感もない。あるいは、金子みすずとか谷川俊太郎のような著名な詩人の作品だと言われても、素人は頷いてしまうほど完成度が高い。
この詩には母親に対する全面的な愛情と信頼が溢れて表現されている。素晴らしい。「はずんでいる」のは皮膚や身体ではなくて心なのだ。「あたたかい」「気もちいい」「とってもやわらかい」のは心なのだ。身体の物理的形状が観察されているのではない。子どもから見た母親への愛情と信頼が、心のありかたが表現されているのである。それは、無論、一方向のものではなく、一方的な愛情ではなく、親子の二人の間の愛情である。愛に包まれた嬉しさと喜びが表現されているのであり、嬉しさで心が「はずんでいる」のである。すなわち、見えてくるのは母親の子どもへのやさしさである。この詩を読んだ選者は、きっとこう思ったに違いない。最近の殺伐とした世の中で、親子の愛情が失われがちな世相で、この詩で表現された母子の関係は何と微笑ましいものだろう。その感動を他の生徒にも教えたい。教育的価値も高いこの作品を入選作にしよう。
新聞記事を追いかけると、やはりこの小学校4年生の子は才能があったようで、今年2月の全国小中学校作文コンクールで別の作文が文部科学大臣奨励賞を受賞している。記事によれば、受賞した作文は「
ぼくはガーデニング王子」という題名で、畑仕事の様子を書いたものらしい。自宅近くの畑で母親と二人で農作業をしている様子を近所の人が見かけている。できれば、その作文を読んでみたい。この子は一人っ子で、母親は30歳、祖父母の実家に帰ってきて4人で暮らしていた。二人は東京で生活していたが5年前に母親が離婚、故郷の八戸に帰ってきていた。ある新聞の
記事では、母親が定職に就いておらず、将来の生活について悩んでいたと書かれている。だが、記事の詳しい地元紙にはそのような情報はなく、殺人の動機は現在では不明となっている。男の子が通っていた小学校の教頭が、新聞記事の中でこの子の文才を絶賛している。恐らく、この教頭先生が「おかあさん」の詩を新聞記者に紹介したのだ。
作文を全国コンクールに出すように指導したのもこの教頭かも知れない。想像だけれど、この教頭は、私と同じように、2年前の作品である「おかあさん」の詩を読んで感動したのではないか。この母親とこの男の子の家庭の境遇を教師の立場で知っていたからこそ、なおさら、この詩に強い感銘を覚えたのに違いない。警察から殺人事件の一報を受けたときの、この教頭の衝撃と慟哭はどれほどのものだっただろう。詩を公開することは、少し躊躇があったかも知れない。詩のことを聞いた新聞記者も衝撃だっただろう。何か、そのときの情景がドラマを見るように頭の中に想像される。母親が家に閉じこもりがちだったという情報もある。真相はわからないが、母親は東京で苦労をして、八戸に帰ったときは相当に心を傷つけていたのだろう。男の子の方は田舎の環境ですっかり元気を取り戻して、大好きな本を読みながら、楽しい学校生活を送っていたのに違いない。
そういう母子関係を想像しながら、あらためて詩を読み直すと、これは単なる日常の写実や実感の素朴な表現ではなくて、母親に愛の心をいっぱい送り届け、母親を懸命に励ましている作品なのである。母親の心をはずませようとしているのだ。男の子は、母親が東京でどれほど辛い思いをしたかをずっと傍で見て知っていたのである。この母親のほっぺは必ずしもぷにょぷにょではなかったも知れない。ふくらはぎはぽよぽよでなく、ふともももはぽよんではなかったかも知れない。家に閉じこもりがちだったという情報からは、やつれて精神不安定になっている若い女の姿が浮かんでくる。この事件の報道に接して、われわれの念頭に浮かぶのは、狂気とか不可解とかの言葉ではなくて、やはり格差社会という問題ではないだろうか。同じような事件が続けて全国の各地で起きている。頭の中から一時消えていたけれど、平塚で二人の子供をマンションから投げ落として自殺した母親の事件を思い出した。
どう言えばいいか、別に気負いとか使命感とかそういうものではなく、私にはどうしてもこういう問題とは自分を向き合わせなくてはならないのだという気分がある。それに触れずに先に行くことができない。何が起きているのかを考え、言葉にしなくてはいけないと思い、最も適切な言葉は何だろうかといつも思う。格差社会の戦場にいるのだ。それが私自身が最も納得できる言葉である。新自由主義の砲弾が飛んできて、隣にいた人間の頭部を吹き飛ばしたり、前を歩いていた人間の内臓をぐしゃぐしゃに潰したりして、死体が散乱して血だらけになった地面の上を歩いているのだ。戦場だから、次の瞬間に砲弾の犠牲になるのは自分だから、誰にも何も声をかけず、目を背けることもせず、ただ生体が死体になる事実だけを喉からのみこんで歩くだけなのだ。戦場では弱い者から犠牲になるのだ。イスラエルの地上軍はガザの子供を銃で頭を撃って殺すが、日本の新自由主義は日本の弱者の子供をこうやって殺す。
神々は渇く。新自由主義の神はさらに渇く。
なるほど、「荒城の月」の縁で竹田の学校が選に入るんだね。
【今日の一曲】
バッハの「
パッサカリア」を。10年前、
中野雄先生に丸山真男の執拗低音論(古層論)をレクチャーしていただいた際に、「シャコンヌ」と一緒にこの曲を教えてもらった。
本当は、この曲を紹介するときは、中野先生のご研究と執拗低音論(執拗に繰り返される低音部と主旋律の上声部の変奏、その比喩で説明される丸山真男の日本政治思想史の方法論)の話をしないといけないのだが、今日はただ悲しい気分の時に聴く曲としてご紹介する。