毎年、この時期になると、
丸山真男の「憲法九条をめぐる若干の考察」に自然に手が伸びて読み返すのが習慣になっている。この論文は未来社から1982年に出た「後衛の位置から」に所収されていて、私は本を渋谷駅地下二階の旭屋書店で購入した。まだ年も若かった。周知のとおり、「後衛の位置から」は「現代政治の思想と行動」の追補を薄い一冊にしたものである。論文は1964年に憲法研究会で行った講演を文章にしたもので、作品としては短い。九条擁護について積極的な説得力を求め、理論的確信を得ようとしたときに、この本のページを捲っている自分がいて、そして恐らく、そのようにしてきた人間が日本中に数多くいたはずで、現在も事情は同じであるはずで、
丸山真男に知恵を授かろうとしているのに違いない。だから私も何十回も読み返してきたはずなのだが、実はビビッドに説得力を感じ始めたのは最近のことで、若い頃はそうではなく、どちらかと言うと「ベーシックすぎて物足りない」印象を受けていた。
基礎理論というのは基本的にそういう性格のものかも知れない。中国文学研究者だった
高橋和巳が、青年時代に「論語」と格闘し、そこに中国思想の本質を発見するべく懸命に読書しながら、書かれている内容が若い高橋和巳にとってあまりに退屈で平板だったので、何度も文庫本を壁に投げつけたと言っていたが、その読書に少し似ていた。丸山真男にはどうしても華麗で独創的な理論体験を期待してしまう。「現代政治の思想と行動」のどこかで、丸山真男は、日本人は民主主義について「ああそれか」とすでに既知で所与の(獲得された)思想であり制度のように見て簡単に片付けて済ます傾向があるけれど、本家の米国人は今なお民主主義の基礎づけについて「ああでもない、こうでもない」と日常的に真剣に議論を掘り下げていると言い、日本人の理論や思想に対する物象主義的態度を批判していたが、私の若い頃の憲法前文や憲法九条についての認識も、何かそれに近いものがあったように反省を覚える。
それでも何十回と読んだものだから、「憲法第九条をめぐる若干の考察」には何が書かれているのですか、一言で教えて下さい、と誰かに訊かれた場合は、質問者に返せる回答が私の中にも用意できていて、すなわち最も重要な部分は、憲法認識の問題として、九条と前文が政府の政策決定を不断に方向づけていく規定であるという考え方であり、その憲法認識によって、現実にすでに自衛隊が存在しているから九条は単に建前で空文であるという(支配者側が国民に仕掛けてくる)思考停止の罠から脱し、仮にいま自衛隊という軍隊が存在していても、その現実の存在を九条の理念で政策的に規定づけて、軍縮と平和活動の方向に導き、導き続けることで平和主義の理想に近づけるという考え方だった。丸山真男は諦めと既成事実への屈服を何より嫌う。そして現実を受け止めながら、それをグリップして政治を変えてゆく主体的な認識と展望を人に示そうとする。人々に勇気を与える。勇気を与えられるから人は丸山真男を読む。
この憲法観こそ、憲法を現実に合わせるのではなく、現実を憲法の理想に合わせるべきだとする護憲の主張に説得的根拠を提供する思想であり、憲法論議のディベートで改憲論者の「現実主義」を有効に論破する武器として活用されている。理想と現実の二元論を、常にホンネとタテマエの分離並存の思考態度で自己了解して、上から押しつけられる既成事実を曖昧に追認する「日本の思想」に対して、丸山真男は、現実と理想との間の緊張を意識し、具体的な関連づけに注目して、そこを梃子に現実を変えて行けと日本人に諭すのである。この護憲の理論武装の定式が64年の丸山真男の講演から始まっているのか、それともそれ以前から誰か憲法学者によって提供されていたのかは分からないが、もし丸山真男からの贈物だとすれば、丸山真男の偉大さを思わずにはいられない。日本の民主主義の守護神である。が、今回の読書ではもう一つ大きな発見があった。基礎理論の真理は年齢を重ねないと発見に至らない。
それは前文の国民主権(人民主権)の基礎づけの問題で、前文の人民主義と九条との関連の意味解釈の問題だった。論文を読めば分かるが、ここで丸山真男が言っているのは、日本国憲法の前文で宣言されている国民主権は、実は大いに九条の戦争放棄と関係があって、単なる抽象的一般的な国民主権の意味ではなく、まさに戦争をしない政府を作るために、戦争政策を遂行しない政府を国民が持つために、そのために人民主権を規定しているのだという考え方だった。この憲法認識は現在でも定着しておらず、私も意外に感じたが、実に面白い考え方であり、日本国憲法に特別にユニークな性格を与える理論であると言える。ここで言っているのは要するにこういうことで、戦争を始めたら、必ず助かるのは支配者であり、元首や首相や閣僚や政治家や官僚や高級参謀は、その家族は、死なずに必ず助かるのであり、戦争の犠牲になるのは、徴兵されて戦場に送られたり、空襲やミサイルで爆撃される無辜の市民だという認識であり思想である。前文にはそれがハッキリ謳われていて、だからこそ国民主権であり九条なのだと言うのである。
言われてみればそのとおりで、いわゆる総力戦を経験し、日本国内だけで三百万人を超える犠牲者を出し、都市大空襲や原爆投下や強制収容所のホロコーストや、南京大虐殺を経験した人類史上最悪の戦争の後で、新国家が新憲法を制定して国民主権を謳うときは、その基礎づけとしては、大昔の封建領主や絶対君主の苛斂誅求を否定する意味での古典的な国民主権(人民主権)ではあり得ない。何のための国民主権か。それは国民が「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」ための国民主権なのだ。戦争の惨禍が意識されている。戦争という問題が何より強く意識されている。政府に戦争させないための国民主権だという考え方。これまでの憲法になかった新しい考え方であり、国民主権と平和主義は不可分一体の原理であり、個々別々に独立に論じられる問題ではないという考え方である。丸山真男には常に新しい発見がある。だから何度も読む。蒙を啓かれる。この機会に皆様にも一読をお勧めする。