憲法記念日に関する報道の中で気になったのは5/3の朝日新聞の
記事で、一面に世論調査の結果が出ている。ご覧になった方も多いと思うが、憲法9条について「変える」が43%、「変えない」が42%となり、朝日新聞の調査では初めて9条改正に賛成が反対を上回った。昨年は9条改正に反対が51%で、賛成36%を大きく上回っている。朝日新聞によれば、昨年と今年で質問を変えており、それが影響したと記事の中で弁解しているのだが、9条改正に反対が少なくなるように意図的に質問設定を変更して数値結果を出したということは、普通に考えれば、朝日新聞の転向と変節の暗示的表明を意味する。憲法記念日の記事として、9条改正賛成が改正反対を上回った「事実」を象徴的に国民に宣告しようとしたのである。この世論調査報道については、恐らく社内で深刻な激論があったはずで、記事の行間に何やら躊躇の様子が垣間見える。右派に押し切られたのだろうが、3月の毎日新聞の世論調査が影響しているに違いない。
いずれにせよ、これで、例えばテレビの政治討論番組などで社民党や共産党が昨年まで言ってきた説得の口上、すなわち「確かに改憲は護憲より多数だが、9条改正については賛成より反対の方が多い」が言えなくなる。「世論の多数が9条改正に反対」の政治言説が封じられた。この事実はきわめて大きい。護憲派にとって痛手だろう。で、それでは肝心の「九条の会」は憲法記念日にどのようなステートメントやメッセージを上げているのか気になって、HPとブログを確認したのだが、
オフィシャルサイトには何の新しい特別な情報も掲載されていなかった。英語版のページを更新したという告知だけがあった。
ブログの方はさらに拍子抜けで、「連休だから更新はお休みです」と断りを入れている。世間と同じGWを堪能している。正直なところ驚き呆れた。普段は9条関係のサイトを見ない人間でも憲法記念日だから気になって見に来るのではないのか。一年のうちで最も「掻き入れ時」の繁忙期が5月3日とその前後ではないのか。
平素は特に憲法問題になど関心のない一般市民が、一年に一度、「ちょっと見てみようか」と9条のサイトを覗くのがこの季節なのではないのか。お菓子屋にとってのバレンタインデーであり、蕎麦屋にとっての大晦日なのではないのか。どうして新しい魅力的な品揃えをしてお客様を迎えないのか。ビジターに有効で説得的な情報やメッセージを提供しないのか。私が「九条の会」に危機感や緊張感が感じられないというのは、こういう事実を指してのことである。説得と宣伝の機会をロスしている。支持を得る貴重な好機を無駄にしている。何故もっと必死にならないのか。「
マガジン9条」の関係者が世間と同じGWを謳歌していていいのか。そういう余裕の態度を標榜していていいのか。9条改正反対が60%を超えていれば話は別だが、護憲派がこんな体たらくだから改憲派が増える
んだよとネット右翼に宣伝口実を与えることになるとは思わないのか。一年に一度の大事な憲法記念日を、どうして護憲派の司令部はもっと大事に扱おうとしないのか。
私ならこうするという提案は別途に提示するとして、全国津々浦々に4700の拠点を組織したという「九条の会」の
政治戦略を見ながら、何か嘗ての毛沢東やホーチミンが指揮した農村解放区戦術の歴史を連想してしまったが、要するに地域で地道に支持の輪を広げようという方針なのだろう。それはそれで悪くないが、政治戦においては陣地戦と機動戦は車の両輪であり、ゲリラ戦だけでなく、正規軍による大規模な地上決戦が必要である。テト攻勢やディエンビエンフーの戦が必要だ。と言うより、もっと大事な問題があるように私には思われて、果たして、今の日本の、特に二十代三十代の若い世代に、いわゆる「地域社会」がリアルなものとして実在しているのだろうかという疑問がある。宮崎駿が筑紫哲也との対談で語っていたが、隣に誰が住んでいるのか顔も知らないマンション生活の住民である現代人には、「地域社会」なるものはそもそも存在していない。そしてまた、恐らく彼らには「職場社会」的な小社会の契機も微弱なはずだ。
ニートやフリーターなどの言葉で表現される労働形態においては、安定的な就業現場で堅実な人間関係を組み、先輩や上司に職業技能や趣味娯楽や社会観や世界観を教わって身につけ、人間的に成長するという一般像は容易に描けないだろう。大胆に言えば、日本の若い世代の多くは「地域社会」と「職場社会」の二つを最初から剥奪されていて、生きる上で必須であるはずのコミュニティの契機から疎外させられている。だと仮定したとき、彼らにコミュニティの代替物を与えているのは、その可能性としてまず考えられるのは、匿名共同体の「ネット社会」であろう。掲示板やブログでの群れ合い、馴れ合い、睦み合い、喧嘩や憎しみ合いも含めた仲間ごっこが、まさに地域と職場の小社会を失った彼らのコミュニティを機能代替しているはずだ。そういう仮説を立てることができる。現代人はバーチャルなネット社会の中にリアルに生きている。その小社会に向かい合って生きている。であれば、9条の説得もその小社会を無視することはできないのだ。
地域や職場の共同体がないから、そこでの説得や啓発の契機がないから、根無し草だから、だから現代人(特に若い世代)はマスコミに簡単に騙され流されるのである。古館伊知郎やみのもんたの詐術に引っ掛かるのだ。ブログが政治においてどれほど有効なツールであるかは来年の参院選で本格的に試される。それを最もよく知っているのは自民党であり、コミ戦を仕切る世耕弘成である。ブログでは現実の政治を変えられないと言っている者は、来年の参院選で、いかに自民党がブログを活用動員して支持を調達するかを見て戦慄するだろう。いま我々が最も知恵を絞って分析察知しなければならないのは、自民党と電通が来年の参院選でネットを使って何を仕掛けてくるかということだ。そこには例のサイバー法案の問題も絡む。「ブログを使って選挙に勝った」という伝説を作ろうとするはずだ。多くの人間がネットコミュニティの中で暮らしている。そこで日々呼吸をして、情報をやり取りして暮らしている。特に政治はそこで判断の基礎を作る。
補 遺
- ブログは現実政治を動かせるか -
ブログは現実の政治を動かせないというのは、本当はそうではなくて、政治を動かすことのできるブログと、それができないブログの二つがあるということだろう。決して一般化はできない。「きっこのブログ」が政治を動かしているかどうかは不明だが、そこらの週刊誌以上に社会を動かす力を見せつけた実績は、日本のジャーナリストの第一人者である
立花隆が認めている。昨年の11月頃の話だが、ある民主党の国会議員(昨年は無名に近かったが今年になって急に頭角を現わして党の期待の星となった)が、ブログの記事を印刷して、ある民主党の幹部(誰でも知っている)に見せたという情報を耳にしている。記事は総選挙と党大会について論じたものだった。政治を動かしたと言えるかどうかは分からないが、国会議員がブログの記事を印刷してわざわざ党幹部に見せたのだから、少なくとも政治家を動かしたとは言えるだろう。何枚か政治家から
年賀状も頂戴したので、ハガキを書く程度は政治家の手を動かした成果を自慢できるかも知れない。
江田五月のHPはブログにリンクを貼ってくれていて、
この記事はそれへのご挨拶のつもりだったが、リンクの手間を取らせた分、政治家を動かしたと言っては自慢が過ぎるだろうか。ともあれ、ブログが政治を動かせるかどうか不審に思っている人間は、来年の参院選での世耕弘成と自民党コミ戦チームのプログラムとオペレーションを見た上で結論を出せばよい。私の結論は、繰り返すが、政治を動かせるブログとそうでないブログの二つがあるということで、人が注目するブログは政治を動かす可能性のあるブログであり、だからこそ、数多くの人が価値を認めて来訪するのだと考える。それからもう一つ、ブログの記事は平日一日一万人が向こうから見に来てくれるが、例えば銀座で私が一万人に記事を印刷してビラ撒きしたら、十秒に一人手渡したとしても一万人に届けるのに28時間かかる。休みなしで十時間配り続けたとしても三日間かかってしまう。それで私の政治記事を読んでくれればいいが、普通に考えれば、受け取ってもゴミ箱行きが九割だろう。
ブログはわざわざ人が読みに来てくれるのであり、記事を読んでもらう(メッセージを届ける)という目的の達成において、ビラ配りと較べてどれほど効率がよいか比較にならない。毛沢東型の「解放区戦術」も悪くないが、マスに訴えて政治の説得力を競うマスコミやネットを主戦場とした数の競争を考えると、私にはそれは六十年代のスポ根アニメに登場する兔跳びの練習のように映る。ネットのリーチや影響力や機動力を軽視して古典的な「足腰の政治」を過剰に崇拝する精神論の戦術思想のように見え、英国史に登場するラッダイト運動的な表象を想起してしまう。それは単に自分のブログが政治を変える力がないから、その事実を認めたくなくて、劣情と嫉妬を隠蔽し真相転嫁するための自己説得として、ブログでは政治を変えられないという言説を無理に一般化しようとしているのではないだろうか。本当の心理的動機は、現実に政治を動かしているブログの客観的実在を認めたくないのであり、擬似的に一般化した「ブログ無力論」に(無力者たちの)支持と共感を集め、後ろ向きな小さな政治の渦を作って、自己正当化を補強したいということなのではないだろうか。