世の中には、自分は頭が悪いとか、難しいことは何も分からないと言いながら、世の中の人間は全て自分の説教を首を垂れて聞くものだと思い込んでいる人間がいる。自己倒錯と言うべきか、思い上がりも甚だしいが、普通は知識や教養のない人間の持論というのは、独善や偏見の傾向と性格を持ちやすいもので、だから他者への説得力を持ちにくいものだと考えられる。それでも無知な自分の説教の普遍性を確信できるのは、その護憲主義が自己内で絶対的な信仰になっているからだろう。思い上がった中高年左翼の「護憲、護憲」の読経連呼は、実際のところ、改憲がすでに世論として通念化され、マスコミが説く「常識」の思想環境の中で日々呼吸している現代日本の若年層からすれば、厚かましく、押しつけがましい年寄の愚痴にしか聞こえないはずだ。何の説得力にもならない。逆に感情的反発を招くだけで、護憲派の異端表象に確信を与えるだけのネガティブな効果しか導かない。
さて、先週号の「週刊金曜日」に載っていた小森陽一の「国民投票で勝つために」(P.8-10)を読んだが、予想どおりと言うか、きわめてディスアポインテッドな内容だった。一読して、これではとても「対抗戦略」などと呼べるような中身になっていない。戸別訪問の意義が強調されていたのが唯一のメッセージだが、その前にまず小森陽一が触れなければならないのは、朝日新聞の世論調査で、遂に九条改正賛成論が反対論を上回って逆転したという政治的事実であり、それを「九条の会」としてどう情勢認識するかという問題だろう。確かに全国の「九条の会」の拠点は一年間で3000から4700に増えたが、拠点数を増やしながら、世論の数字では九条改正賛成を多数にしてしまっている。負けている。押されている。どれほどそれを操作報道だとか世論捏造だとか抗弁しても、そして反証の数字を挙げたとしても、その反論の説得力は護憲派陣営の内部に限定されたものにしかならない。
普通の人間がその二つのニュースを見て思うのは、「九条の会」の地域拠点の増大が必ずしも九条堅持を支持する世論の拡大には結びついてないという厳しい現実であり、政治的効果に対する疑念だろう。具体的な批判は次の稿で小森陽一の議論を引用しながら展開したいが、小森陽一の視角の中で欠落しているのは、端的に言って国会での政党の議席数の問題である。中央政界の問題は「九条の会」のマターではないと小森陽一は考えているのだろうか。このまま次に一年間経ったときは、「九条の会」の全国拠点は一万を超えているかも知れないが、九条改正賛成の世論も50%を超えていそうな予感がする。実際に国民投票が実施される前に、まず国会で国民投票法案を可決させてはいけない。法案が上程されても否決できる議席数を院の勢力として持っていなければならない。朝日新聞によれば、九条改正賛成が43%で反対が42%なのだから、半数の議席比は確保できていてよいのだ。
昨夏に総選挙があり、自民党は憲法改正に踏み出すことを
マニフェストに書き、教育基本法改正を公約して選挙に臨んだ。この選挙に負ければ、教育基本法が改正され、国民投票法が制定され、場合によっては次の衆院選を待たずに改憲の発議が行われてもおかしくない情勢だった。マスコミは口を噤んだが、護憲か改憲かは実は重要な争点だった。昨年の衆院選こそが改憲と護憲の分水嶺だった。自民圧勝という結果が出たからこそ、前原誠司は民主党の基本政策を改憲競争(九条改正・自衛軍・集団的自衛権)に転換させたのである。然るに、護憲を必達の目標としているはずの共産党と社民党は、何の危機感も緊張感もなく、そのまま選挙戦に入って自党の一桁議席維持のために戦い、「ライスカレー」だの「たしかな野党」だのと冗談を飛ばしていた。結果はあのとおりである。「九条の会」と小森陽一は何をしていたのだろう。なぜ護憲二党を合同させるべく斡旋奔走しなかったのだろうか。
それは俺のマターではないと思ったのだろうか。ズバリ言うが、朝日新聞が九条改正賛成と改正反対を数字逆転させたのは、昨年の総選挙の結果に由る。社内では数字について喧々諤々があったはずだ。あのような無残な選挙結果でなければ、朝日新聞の幹部も、せめて賛否同数で5月3日の記事にしただろう。もはや護憲政党は護憲する意思がないと判断したのだ。毎日に倣って「歴史の必然」を認めたのである。九条改正で改憲が発議されたとき、院でも国民投票でも、それを阻止する数の政治は出て来ないと判断を下したのだ。朝日新聞がそれでも九条に拘れば、朝日新聞は社民党と共産党の支持者のための新聞になってしまう。完全な異端新聞になる。読者を失い、世論に対する影響力を失う。だから「九条改正多数」の記事出しに踏み切ったのである。実際に昨年の総選挙を見た人間は、護憲政党の護憲スローガンを信用することはできなかっただろう。改憲やむなしと覚悟を決めたに違いない。
小森陽一が九条を守る戦略を語るときは、昨年の夏に「
九条の会」が何をしたのか、何をしなかったのか、まずそこから総括を始めなければならない。護憲政党を一本に纏める政治を作れなかった無力を自己批判しなければならない。その意思を示せなかった無気力を反省しなければならない。護憲勢力を院内で圧倒的少数の異端派に結果させた無策を自責しなければならない。そうでなければ、改憲と護憲のハーフウェイにある一般市民を説得できないだろう。それは小森陽一のマターなのであって、責任は「
九条の会」にもあるのであり、社民党や共産党だけに責任を被せることはできない。共謀罪にせよ、教育基本法改正にせよ、国民投票法案にせよ、今国会でそれが連発して提出されているのは、これは全て昨年の衆院総選挙の結果なのだ。衆院選で示された国民の意思が根拠なのである。絶対に負けてはならない戦いだった。負けてはならない戦いに護憲派は不戦敗した。結果責任への総括が必要である。