ネットでの愚劣な誹謗中傷のパターンは、ネット右翼より先に無手順通信時代に掲示板左翼が開発し常態化した悪習だった。時期的には80年代末から90年代初めの頃であり、舞台は主としてニフティである。その手法と文化をネット右翼が学び取ってインターネットで全盛化し、今日の惨状に至っている。ネットでの誹謗中傷の発信は、覚醒剤と同じで、常習者は副作用のダメージを知りながらも快楽の誘惑に負けて何度も繰り返し手を出す。中身がなく、内在的な説得力のない感情の投げつけは、批判ではなく、単なる誹謗でしかあり得ない。そして誹謗中傷は名誉毀損の要件を構成する犯罪行為である。昨年から往年の掲示板左翼が玩具をブログに変えて遊び始めるようになり、憂鬱な毎日が続いていた。掲示板左翼の常習者は息をするついでに安直にネットで誹謗中傷をする。頭が悪く、難しいことは何もわからない人間であれば、その人間の誹謗が批判に化けて正当化されるわけではない。頭が悪い人間でも、東大卒でも、誹謗は誹謗であり、犯罪は犯罪である。覚醒剤に手を出すなと言っても分からない人間は、結局のところ、副作用を通じてしかそれを知る方途がないのだろう。
駅頭での宣伝やチラシの配布(中略)など、これまでの運動形態はいくつもあり、もちろん、それも大切な運動でしょう。けれども、そこから一歩踏み込んで、実際に他人の家の呼び鈴を鳴らして直接お話をする、ということには、不特定多数の人を相手にするのと比べてかなりの勇気が要ることは確かです。(中略)全戸訪問をしている方々のお話を聞いていて、なるほどなと思ったのは、相手の話を素直に聞けばいいので、あまり勇気はいらない、という言い方をされる方が多かったことです。「憲法九条を守ることが正しいのです」という形で相手を説得したり、ましてや論破しようなどと思っていないのです。「北朝鮮が攻めてきたら、軍隊を持たずにどうするんだ」と聞かれたら、自分が答えられるだけの言ってくる。納得が得られない場合には、次に訪問する日を約束してくる。そうした一戸ごとに出された質問や疑問を解決するために、会のメンバーで集まって学習会を開く。自分たちだけで解決できない問題であれば、そのことについて詳しそうな人にあたりをつけて講師として呼ぶ。話を聞いて自分でも納得できたら、約束した家に再び行って話し込んでくる・・・という過程を大切にするということのようです。 (週刊金曜日 5/12 P.9)
前に紹介した小森陽一の「国民投票で勝つために」のキーのメッセージであり、全戸訪問の意義を強調した部分である。これを読んで感じたことを素直に言うと、異教徒の土地でキリスト教の布教活動を説く神父とか牧師の言葉のような宗教的印象を強く感じたことと、それと類似した連想として、飛込みセールスの意義とノウハウを説教する昔の「営業特訓教室」の指導者の口調を思い出した。今はもう新入社員の教育研修の一環として飛込みセールスを励行している民間企業はないと思うが、一昔前は結構盛んで、日経新聞の一面の下の広告欄に、「地獄の特訓」とかいう題目で、自衛隊体験入隊と厳しいノルマを課した飛込みセールスを組み合わせた「営業マン訓練実習」が企業向けの教育商品として売られていた。「営業は断られたところから始まる」などという言説も、古いマーケティングの教科書などに載っていたりする。要するに商品を売るための営業マンの精神論なのだが、この精神教育は、「押し売り」という本質的契機を媒介にして宗教の
勧誘活動と繋がる。私も稀に聖書を抱えたキリスト教の伝道者からの呼鈴を受けるが、無論、話は聞かずにすぐに引き取ってもらっている。
実際の「九条の会」の全戸訪問の実情はよく分からないけれど、上の小森陽一が言うように、一般に訪問先と九条の議論に及ぶケースはむしろ珍しいのではないだろうか。人は誰だって自宅で寛ぐプライベートな時間が最も貴重なものであり、それを他人の都合で、しかも他人の政治的な目的で掻き乱されたくはない。押し売りお断りが基本だ。時間に余裕のある年金生活の高齢者の世帯ならともかく、仕事で多忙な三十代から五十代の普通の人の住む宅を戸別訪問しても、時間を割いて真剣に話を聞いてもらえる可能性はきわめて限られていると思われる。よほどの美人の来訪とか、縁故者の紹介でなければ、家に上がってもらうという機会提供はないだろう。訪問を受ける側にとって、基本的にこれは「押売販売」であり「宗教勧誘」なのだ。それと、上の小森陽一の話の中で、「次のアポイント」を相手から貰える論理的可能性がどこにあるのか想定できない。普通は、押売訪販や布教勧誘は二度と来て欲しくない私生活の邪魔であり、迷惑な行為なのだ。小森陽一の話で逆説的に納得するのは、一人暮らしの老人が悪徳営業マンに騙された詐欺の被害に遭いやすいという事実である。
「九条の会」の参加者にお年寄が多いという事実と、地域戦略重視、戸別訪問重視の「九条の会」の運動論は二重映しに重なっている。「九条の会」がそこをメインのターゲットに設定しているからだ。勧誘の対象が高齢者中心のオペレーションだから参加者も高齢者主体になるのである。組織論のアプローチがパークとプロスペクトを規定している。そして戦争体験を持つ高齢者は、前提的に憲法問題に関心が高いと言える。この小森陽一の話を聞きながら、もう一つ思ったことは、これまたネガティブで、「九条の会」の末端で汗をかいているアクティブには恐縮だが、関曠野の「左翼の滅び方について」とそれをめぐる議論の表象だった。歴史の中で負けて滅んで行く者、老いて力を失い消えて行く者、置き換えられて忘れ去られる者の表象。だから、小森陽一の戸別訪問論は、何か政治の運動論と言うよりも、宗教的な精神論の気配が濃厚なのである。勝つための方法や戦術ではなく、負けて死ぬ者の覚悟や諦念の諭しの響きがある。関ヶ原で負けた西軍の側が、死に場所を求めて大坂の陣に参集している雰囲気を感じる。「座して死を待つのではなく、最後は戦うだけ戦って悔いなく死のう」という思想性。
客観情勢を考えれば、私にはある種の敗北主義に聞こえる。いつか書こうと思っていたが、辺見庸の実存の思想とメッセージもそれに少し似ている。私は違う。負けるための護憲論は言わない。諦念や覚悟の説得はしない。私が興味があるのは、あくまで政治的に勝利する最適化の戦略とイマジネーションの提案だけだ。政治学は社会科学である。念仏も読経もしない。