たとえばマンションの隣人との間で騒音等で諍いになっても、普通は隣人への誹謗中傷を大声で喚いたり、あるいは隣人家族を誹謗中傷するビラを配って回るようなことはしない。それは行き過ぎた非常識な行為だからであり、住環境コミュニティの中で疎まれる暴走だからであり、後で自身に悪い影響が返ってくることを慮るからだ。ネットでの個人は匿名の存在だが、そこは個々人にとってはリアルな生活環境そのものであり、その人間のネットでの行動履歴は基本的に後々まで残ってくっついて回る。そうした事どもを考えると、マンションのコミュニティ空間での一般的な倫理や常識は、ネット空間でもそのまま適用されてよいはずなのだが、そのような考えが及ばず、ネットだから誹謗中傷は自由だと考えている人間が多い。ネットでの発言は公共空間での言論であり、印刷して発表するものと何ら変わりはない。誹謗中傷は自らを卑しめ貶めるだけだ。言論の自由は無制限の自由ではなく、権利は濫用すべからずが大原則なのだから。
さて、「九条の会」のサイト戦略の
続きだが、現在の「九条の会」と「マガジン9条」のサイトの情報発信のあり方を批判的に特徴づけると、①メルマガ・オリエンテッドで、②ペーパー・オリエンテッドであるという二点を指摘することができる。この点は異論はないだろう。情報発信がウィークリーのメルマガ主体に編集構成されていて、すなわち機関紙を週単位で購読者のポストに投函する形式を採っている。デメリットばかりではないだろうが、九条の情報戦略として見たとき、この方法は機会損失が多く、有効ではないと言える。自分自身のことを考えれば判りやすいが、メルマガに一度登録しても、必ずしも着信の度にメールボックスから開いて閲読しているわけではない。メルマガに掲載されている情報を読みたいニーズは、メルマガに登録したその瞬間が最大であって、そこから後は関心は徐々に冷えて行く。自分が知りたいものや関心があるものは、まずは検索エンジンで調べて情報に辿り着くのがネット利用の一般的なスタイルである。
情報発信の頻度を週一回に固定するのも、効果を考えれば非常に不具合が多い。情報は生ものであり、鮮度が命である。憲法をめぐる政治の動きが慌しく、改憲の動きも、護憲の動きも、日々刻々と情勢が動いている最中に、なぜ「九条の会」や「マガジン9条」のヘッドククォーターが情報発信の頻度を週単位に制限しているのだろう。どこにその必要があるのか。全く逆効果である。改憲プロパガンダのシャワーはマスコミを動員して連日連夜行われている。ワイドショーも毎日ある。新聞の社説も毎日ある。それに対抗する側がなぜ情報発信のパイプを細める選択をするのか。対抗情報を大量に生産して大量に配信しなければならないはずだ。そしてそれは、メールボックスから情報を取り出させるのではなく、サイトにダイレクトにアクセスさせるのである。ブックマーク・アクセスを標準にするのだ。新しい情報が頻繁に更新されていて、情報が価値のある有意味なものであれば人は読む。カウンターも取り付けろ。紙(PDF)はセカンドメディアだ。
そして情報部門の責任者は、アクセスの目標値を自らに課し、達成したら目標を吊り上げて行き、企業の売上管理のように目標管理するのである。護憲側だけでなく、むしろ改憲側に読ませるサイトにしなきゃいけない。改憲派を含めた一般読者を惹きつけるコンテンツとメッセージの発信基地でないといけない。そんな事は当然だ。趣味や遊びではないのであり、死ぬか生きるかの瀬戸際なのだ。改憲されたら終わりじゃないか。それくらいの危機感と緊張感を持たずにどうして憲法を守れるのか。危機感と緊張感が無いから、「マガジン9条」のネット投票で右翼に大敗して、与えてはいけない無用な
既成事実を作ってしまったのである。ネット右翼の方がはるかに戦闘意識が高い。身内で睦み合っている誹謗中傷左翼に情報を教えるが、「世に倦む日日」のサブスクライバの半数以上は改憲派である。ワンパターンの読経ではなく中身があるから人が読む。サイトはアリバイで設営してはいけない。熱意と創造力を見せつけなくてはならない。
と書きながら、神の啓示でグッドアイディアが閃いた。村田昭治をリクルートすることだ。大江健三郎と澤地久枝が三顧の礼を尽くせば、必ず動いてくれるだろう。「九条の会」のブランディング戦略とコミュニケーション戦略の総指揮を執ってもらう。メッセージとコンテンツをパースエイシブでアトラクティブなものにする。現在の護憲派の連中は、ロートルばかりで、マルクス主義の教義と運動、古臭い左翼陣営の言葉と方法しか知らず、政治の実践にマーケティングの理論を応用する術を知らない。マーケティングという表現に抵抗があるなら米国政治学でもいい。社会科学としての中身は同じだ。改憲派の学問と技術、つまり新自由主義陣営の理論と技術をこちらが逆取りして、護憲を政治で勝利させなければならない。人も知るとおり、明治維新は
テクノロジーの戦争だった。第二次幕長戦争のミニエー銃、戊辰戦争のアームストロング砲。軍事技術で最先端を制した方が勝利した。この改憲阻止の戦いも同じである。理論とテクノロジーで勝たねばならない。
新しいバトルフィールドでのセンスとスキルで勝ち、護憲が未来を握っていることを見せて、人々を納得させなければならない。旧来左翼ではだめだ。新しい力を護憲運動の中核に据える必要がある。