結論を先に言えば、映画の評価としては、それほど高い得点を与えられる出来ばえではなかった。全体としてプレーンなのである。脚本も映像もプレーンで、端的に言って、小説「ダ・ヴィンチ・コード」を映画にしたというだけの内容でしかない。高いレベルの感動を期待して映画館に足を運ぶと期待倒れに終わる。小説はあのとおり分厚い中身があるから、実際に全てを映像にすれば十時間以上の長さになる。端折って二時間半の映像に纏めたという感じだが、深みや味わいが削がれて表面を撫でたものになっていた。あの映画で知ることができるのは「ダ・ヴィンチ・コード」の情報と雰囲気だけで、「ダ・ヴィンチ・コード」の世界に浸って堪能することはできない。まさに鰻の匂いだけを嗅がされた半端さ。映画だけ見た人は物語の全体は理解できないだろう。昔、角川春樹が「読んでから見るか、見てから読むか」と言って商品を宣伝していたが、映画「ダ・ヴィンチ・コード」がまさにその典型で、この映画は本を売るための宣伝道具だ。
もう少し感想を言うと、小説を読んだ時点で、「ダ・ヴィンチ・コード」はかなり明瞭な映像イメージが頭の中にできる。小説そのものが映画作品的で、映画化を前提した中身になっていて、文章を読ませる文芸作品と言うよりも、映画のドラフトを読んでいる感覚が強い。したがって、映画を見ている時間はそのイメージの検証作業のような具合になるのだが、小説で出来上がっているイメージの方が実物の映像より勝っていて、場面場面のひとつひとつが「何だ、こんな感じか、小説だともっと濃かったのに」と思い、会話や展開に不足感を覚えながら過ぎて行くのである。二時間半の映画は、だから、ひとつひとつの場面には不満感があり、全体としては退屈感を覚えるという、矛盾した感覚で座席に座り続けなくてはいけない。アリンガローサなどは、もっと彫りの深い、内面の濃い悪魔的なキャラクターなのだけれど、映画ではその持ち味が示されておらず、どういう人物なのか物語での位置づけがよく分からないまま放置されていた。
作品の中で最も重要なキャラクターであるティービング卿は、私の想像の中ではジャック・ニコルソンに近いディープで尖ったイメージだったが、俳優のイアン・マッケランは個性が強くなく、平板で軽い演技だった。情報では、イアン・マッケランとアンソニー・ホプキンスが候補者として配役を争い、サーの称号を持つマッケランが選ばれたと言う。アンソニー・ホプキンスなら、ぜひアリンガローサ役で起用してもらいたかった。それと、キャスティングで感じた不満は、やはり何と言っても主人公のラングドン役のトム・ハンクスで、やはり根本的に違う。本を読んで私の頭の中に登場したラングドンの相貌ではない。配役についても、原作者のダン・ブラウンが間違いなく関与しているはずなのだが、ダン・ブラウンは本当にトム・ハンクスをイメージしながら執筆していたのだろうか。私のイメージのラングドンは、もっと知的で、具体的な俳優の名前はパッと出せないが、背が高く、胸幅が広く、スーツにネクタイの似合うアメリカ人のイメージである。
私のラングドンはもっと表情や思考が活発で、いつも「ああでもない、こうでもない」と考えていて、宗教史の知識やアイディアが前頭葉に充満横溢していて、それが目の動きとして顕著に出ていないといけない。映画の観客をアナグラムと象徴解読(意味解読)の世界に引き込んで、常に謎解きをしていなくてはならず、観客にそれを促し、観客をその気にさせる知的興奮の表情を常に見せていないといけない。「これは何だろう、あれは何だろう」と考え、「そうかわかった、きっとこうだ」という深慮探索と発見閃きの二つの思考回路をハイスピードで往復しフリクエントしていなくてはいけない。そういう表情と態度こそが「ダ・ヴィンチ・コード」のラングドン教授の基調であり、型(パターン)であるはずなのだ。目の動きがダイナミックで、目の動きで、シオン修道会とカトリック教会の血塗られた歴史の謎を観客に説得しなくてはいけない。それができてないのだ。トム・ハンクスの視線と表情はひたすらスタティックで、動きが鈍いのである。
一瞬の閃きとか、謎解きの迷宮に入った呻吟とか、知的ストラグルとか、そういう「アメリカン・インテレクチャル」の基本的な表情が説得的にプレゼンテーションされていない。ソフィー・ヌブーのオドレイ・トトゥは合格点を与えてよいだろう。私のヌブーのイメージは、もう少し髪が茶色で瞳がブルーの美女だったけれど、オドレイ・トトゥには彼女なりの独特の個性が感じられたし、映像の端々で見せる脚線美が印象的だった。正統派の存在感。オプス・デイ教団のシラスも重要な人物で、これは映像ではどんな具合になるだろうかと興味津々だったが、ポール・ベタニーのシラスは成功していた。私が想像していたシラスより年齢は若かったが、凄みはよく出していたと言えるかも知れない。シラスという悪役キャラクターの設定そのものが最初から成功していて、要するに原作が映画的(映画用)に作られているのだ。最初の、あの
シリス(馬巣織り)で太腿を痛めつける「肉の苦行」、すなわち自虐拷問によって浄化快楽を獲得する宗教秘儀の映像に注目したが、期待どおりの迫力ある映像に仕上がっていた。辛口だが、評価できるのはそのあたりだろうか。
全体として淡白で薄味の脚本と演技と映像。心を感動させる映画ではなかった。