
梅雨の季節になると辺見庸に心が向かうのは、自分の中ではやはり確かなことらしい。梅雨寒の湿りきった空気の中で、心が内側に向かい、ネットやブログの情報ではしっくり埋まらず、辺見庸の文章の世界に浸る。深層世界で辺見庸と梅雨の季節がくっついているのは何故だろうかと考え始めたら、何となく思いつく理由がありそうで、その一つは、「永遠の不服従のために」の冒頭に置かれた小編「裏切りの季節」の表象であり、もう一つは、「いま、抗暴のときに」の中にある傑作「日常という化装」の残像である。両方とも実に華麗で秀逸な作品で、辺見庸の世界を存分に堪能させてくれ、読後に期待以上の満足と興奮を与えてもらえる。一言一句、一行一文が芸術的に素晴らしい。「裏切りの季節」は、丸山真男の「
知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる。テーマは改憲問題」という言葉をキーにして、現代におけるマスコミの「裏切り」を、アジサイの花の色模様の変化と交錯させてパラレルに説き語る小論で、その文章の企画と構成の天才、絶妙な筆致と説得に恍惚とする。

「日常という仮装」は、「いま、抗暴のときに」の本の中でも特に印象的な一品で、太宰治論である。太宰治の「
満願」を完璧に解読しつつ、一九三○年代という時代と現代とを重ね合わせて読者に示している。文学批評であると同時に見事な時代分析であり、すぐれた知識人批判の議論となっている。で、桜桃忌が6月19日で、桜桃忌のニュースをテレビで見るときは、カラフルな傘をさした女たちが墓前に集まっている映像が常であり、太宰治には梅雨のイメージが纏わっている。その二つの作品の感触と残景が、私の中で梅雨の季節感と辺見庸の世界を結びつける潜在要素になっているように思われる。辺見庸の文章はセンス抜群で、常にカタルシスとコンプレックスを感じさせてくれる。現代日本で最高の日本語の文章を書けるのが辺見庸で、すなわち日本の知識人の中で、現存する人間としては疑いなく最高峰であろう。このことは本当はもっともっと多くの海外の人々に認められてよい。現代日本を代表する知識人の評論として、翻訳本が売れて、諸外国の図書館に定番として置かれてよい。

私は辺見庸を知って、初めて文学者という概念に中身を感じて積極的な敬意を持つようになり、そして文学の偉大さを思い知らされた。それまでの私は、夏目漱石にせよ、宮沢賢治にせよ、単に過去の偉人であり、文学者に対して本当の意味での尊敬を払ってはいなかったのだ。文学と文学者がどれほど人生や世界に大きな影響力と需要を持つかを、私は長い間知らなかった。周囲にも(女性は別として)文学部出身という人間はおらず、影響を受けることはなかった。社会に出てから影響を受けたのは、これまでは工学部出身の人間が多かった。文学の力の大きさに頭を垂れるようになったのは、この五年かそこらの出来事で、特に辺見庸との出会いが大きい。現代は文学の時代であり、文学者が力を持つ時代である。法学部や経済学部の人間が力を失い、影響力を失った時代だ。覚悟と諦念の時代である。心ある者、知識ある者が、ウェーバー的な「現世の合理的改造」の方向に力を尽くして達成を得ることができず、生の意味を内側に持たねばならない。人との出会いも内側の世界のためにある。

心の内側の世界を築き豊かにすることしか知識の意味がない。そういう時代のカリスマが辺見庸なのだ。もう少し言おう。このことには大きな社会科学的意味がある。法学部と経済学部とは何か。つまり東大だ。国立大学である。東大を中心とする国立大学のアカデミーが知的な生産力と影響力を失い、価値と権威を失ったのである。東大とは何か。霞ヶ関の官僚だ。虎ノ門の特殊法人の理事だ。日々何をするでもなく、ルーティンを回し、数字を弄り、ハンコを押し、税金を貪り取り、銀座で飲み食いして遊ぶしか能がない浪費貴族である。最近は英語の読み書きと会話を覚えて、米国の年次報告書要項の必達と遵守だけは目の色を変えて真面目にやっている。法学部の知識も経済学部の知識も無意味になった。伝統的な社会科学はお払い箱になった。日本の国立大学は終わったのであり、だからロースクール(法科大学院)やビジネススクール(株屋学校)で生き残ろうとしているのである。でも、人は、日本人は、銭儲けだけの知識だけで生きていくことはできない。それができるのは米国人だけだ。

生きる意味を見つけるためには、それを探して掴むためには知識と教養の世界が要る。思想が要る。バブルが崩壊した後の廃墟のような日本で、そういったインテリジェンスを日本人に提供してくれたのは、文学部の人間だった。早大文学部が提供した。名前を言おう。村上春樹、五木寛之、辺見庸、この三人である。この三人がカリスマだった。日本人に生きる意味を教え、生きる勇気を与えた。東大法学部から早大文学部に変わったのが、世紀末から今世紀初頭の日本の思想である。説得力は文学部が持つようになった。生きる意味は早大文が教え、銭の稼ぎ方は米学(ロースクール・ビジネススクール)が教える。そういう二元体制になった。知識の体系が二元化された。かつてそれを一元的に押さえていた東大(岩波書店)は立地を完全に掘り崩されて、影響力と説得力を失い、貴族化し遊戯化した。そのアカデミーにおける残滓が、ポストモダンの社会科学である。東大社研。山之内靖と上野千鶴子と小熊英二だ。左翼の遊戯化と貴族化と官僚化の真相である。山口二郎も早野透も船橋洋一もその線にある。官僚貴族。
そして私は私で、社会科学の挑戦はするけれど、したいけれど、せざるを得ないけれど、辺見庸的実存主義の意味と事情はよくわかる。現代が文学部の時代だということはよくわかる。認める。