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本と映画と政治の批評
by thessalonike4

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預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber
預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber_b0087409_13233665.jpg同じ話を何度も繰り返し書いているが、三年前のイラク戦争に対する反戦運動のとき、日本の反戦運動は辺見庸を指導者として中核に据えるべきだった。運動にはカリスマ的リーダーが必要で、それがなければ運動は盛り上がらない。前も書いたが、3月8日のあの日比谷公園での集会があったとき、野外音楽堂で話を始めたのは吉岡忍と辛淑玉だった。音楽堂の外にも場内のスピーカーから音声が漏れ聞こえたのだが、途端に拍子抜けして、シラけた気分で早々に日比谷公園を立ち去ってしまった。吉岡忍と辛淑玉の話なんて金を貰っても聞きたいとは思わないよ。国内最大規模のイラク反戦集会で、十年に一度あるかないかの大事なイベントなのに、何で吉岡忍と辛淑玉なんだ。プロモーションセンスのない主催者の企画に失望してしまった。できれば、そこで、辺見庸に歴史に残る名演説を残して欲しかったのだ。それを聴きたかった。イラク戦争開戦の前後、私の心の支えは辺見庸の文章だけだった。



預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber_b0087409_1556263.jpgテレビは帝国の侵略戦争を賛美称揚し、属州臣民に無条件で翼賛支持するように世論を押し包んでいた。皇帝陛下の神聖戦争演説を何度聞き込まされたことか。その冗漫なshitな英語をワシントンの手嶋龍一が要約して属州臣民にデリバリーした。スタジオには森本敏と志方俊之が陣取って、キャスターと一緒に容赦なく反戦論を排除した。そんな日が果てしなく続いた。憤怒と屈辱と絶望で神経衰弱になり、心が砕かれ潰えそうになったのを慰めてくれたのが辺見庸の文章だった。そのことは前に書いた。辺見庸が演説するのを聞きたくて、講演会に出かけたのだが、真実を言えば、講演そのものは文章のあの響きとはかなり遠い距離があった。私が知識人に期待するスペックは高くて、文章だけでなくオーラルも絶品であって欲しい。伝説となっている丸山真男の「三たび平和について」演説。そして晩年の大隈講堂での「大山郁夫論」講義。庄治薫が小説で描いた「どこまでも人の想像力を弾ませ伸ばす」説諭。

預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber_b0087409_13272964.jpg残念ながら丸山真男の講演を聞く機会は一度もなかった。他に日本人で素晴らしいのは、演説ではないけれど、司馬遼太郎の「太郎の国の物語」がある。吉田直哉を前に座らせた迫真のモノローグ。あの最終回の、「それでも我々の中には微弱なる電流が流れていますよね」のトークなどは、何度聞いても、自然に涙がポロポロこぼれてくる。即興のようで、話す中身は予め完全に頭の中に詰まっている。アクセントも、ブレスも、リアルタイムに最高の感動を演出して「作品」を織り上げて行く。「太郎の国の物語」はオーラルの最高傑作だった。が、上には上があって、私がこれまで見た最高の演説は、キング牧師の有名な「山上の垂訓」演説である。狙撃されて死亡する直前の遺言めいた演説。モノクロフィルムで見たことのある人も多いと思うが、I have a dream のフレーズで繋げ、歌うように抑揚を上げ、詰めかけた黒人聴衆とのユニゾンで詩劇のような展開を醸し出し、興奮と感動の頂点で終止符する素晴らしい英語の演説。

預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber_b0087409_13251749.jpg要するにあれを見たいのだ。言霊(ことだま)が震えて聴衆を包む演説を聴きたいのである。そういう預言者の出現を私は待望していて、そして必ず現われてくれると信じている。考えてみれば、キング牧師もまさにカリスマで、キング牧師がいなければ六十年代の公民権運動の政治はなく、今日の米国の民主主義の水準もなかったはずだ。キング牧師がいなくても誰かが同じ事をやっていただろうと言うのは間違いだ。歴史は同じ結果になっていたと思うのは間違いだ。黒人の権利は今日と同じではなかっただろう。歴史を作るのは人間で、人間が出現しなくては歴史は前に進めない。人間とは、状況に埋没している烏合の衆ではなく、意識的で超人的な一個である。挑戦者である。少し関連するが、社会科学に二人の聖人がいて、言うまでもなくマルクスとウェーバーだが、カリスマ(預言者)を積極的に意味づけ、その役割に注目したのはウェーバーだった。マルクスは逆で、マルクスにおける変革主体は階級としてのプロレタリアートである。

預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber_b0087409_1325263.jpg私は年を追う毎にマルクスの説得力から離れ、ウェーバーの説得力に傾いている。被支配階級による革命という図式ではなく、預言者と中間層による現世の合理的改造という構図に納得を覚える。ウェーバーによれば無知蒙昧な下層大衆は駄目なのだ。変革主体になれない。彼らは「呪術の園」で阿片を吸って生きるしかないのである。ウェーバーの言うとおりだ。八十年代後半以降の日本の無手順通信掲示板の事実がそれを証明している。私は若かったから、これで革命は成れりかと逸ったが、被支配階級の全体がオープンなメディアとネットワークという究極の物質的土台(テクノロジ・インフラ)を得て、これで直接民主主義のユートピアの到来かと意気込んだが、豈に図らんや、優秀な日本の被支配階級どもは、大事な革命の戦略兵器たる掲示板を詭弁と讒謗の汚泥の海とし、阿片窟と化して群れ遊んだのであった。ネット掲示板は中毒患者が屯し揶揄罵倒の狂態で埋める誹謗中傷の阿片窟となり、今、その病弊をブログに伝染しつつある。

預言者と中間層。結局はこれしかない。すなわち、麻薬には絶対に手を出さないという最低限の禁欲倫理を保持できるウェーバー的中間層。
預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber_b0087409_13253931.jpg
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by thessalonike4 | 2006-05-30 23:30 | 辺見庸
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