村上世彰逮捕の余韻が続き、事件の意味づけをめぐって様々な声が上がっている。一般的な議論は、村上世彰の暴走を新自由主義に対する批判的な観点から捉えるものであり、行き過ぎた規制緩和政策が日本の経済社会に深刻な打撃を与えた問題に着目する立場である。一方で、検察の捜査の恣意性と裁量性に対する批判を交えつつ、「儲けた者を社会が過剰に敵視して、出る杭を打ってばかりでいいのか」といった検察批判の議論、すなわち新自由主義擁護の立場からの意見も決して少なくない。一昨日と昨日の「報道ステーション」では、繰り返しこの視点から加藤千洋と古館伊知郎がコメントを纏めていた。堀江貴文に続いて村上世彰までが証券取引法違反で逮捕されると、頑張って金を儲けることそのものが悪いことだという風潮が社会に蔓延して、日本の
構造改革にブレーキがかかるのではないかという心配を言っているのである。電通と安倍晋三に言わされているのだろうか。
私はこれまで、ずっと新自由主義批判の論陣をブログ上で張ってきた。学術論文の形式と仕様ではないけれども、ブログの議論としては他と比較してそれなりに本格的な中身を持つ言説だったと思うし、ネット上で反小泉の世論形成運動を盛り上げる上での説得力に貢献してきたのではないかと密かに自負している。その
反小泉ブロガー同盟の同志から、今年に入ってからのことだが、「何でもっと新自由主義の批判を続けないのだ」と不満と催促のメールを何度も頂戴していた。野口英昭怪死事件や偽メール事件の分析と追及では読者の期待が満たされないと言うのである。「民主党批判は小泉政権を利するから控えろ」という自粛要請ともセットになっていた。私は反論はしなかったが、心の中では「私のブログは特定党派の政治スローガンを連呼するベンディングマシンではありませんよ」と思っていた。私も都合のいい男ではないのだ。民主党のためにブログをやっているのではない。
半年を経て、気分の上で少しばかり変化が起き、真正面から純朴に新自由主義批判の熱弁を奮うことに億劫を感じ始めている自分に気づく。新自由主義の思想も決して全部悪いところばかりではないのだ。と言うよりも、新自由主義を批判する側が、新自由主義を学び吸収して、その方法や感性や技術を包摂して、自己のものとして、逆に新自由主義を凌駕する理論的な生産力と提案力をアピールできなければ、新自由主義が支配する政治を転換することはできない。私はずっとそう言い続けてきた。反対派が単純に「反対、反対、嫌だ、嫌いだ」と反新自由主義のシュプレヒコールを絶叫しても、新自由主義の中で生きている人々を真に説得することはできない。それは単に「負け組」の恨み節であり、負け犬の惨めな遠吠えでしかないのだ。新自由主義を批判する者が、新自由主義が持っている長所や武器を積極的にインプリメントして応用し、自己活用している姿を証明して説得しなければならない。
ロールズの格差原理論を批判して、人格の別個性を重視、悪平等を拒絶したリバタリアンのノージックの主張に、つい気分が誘われる。私は村上世彰には全く同情しないし、今回の検察の捜査が不当だとも思わないし、検察の捜査を完全に支持する立場だが、村上世彰的なリバタリアニズムの動機について、日本の皮相的なコミュニタリアンは、もう少し内在的にそれを見極める必要があるのではないか。出る杭が打たれるならまだよいが、足を引っ張られるのは本当に嫌なことだ。悪平等主義の根本的病理について、私がすぐに想起するのは「ワイルドスワン」の文化大革命の世界で、要するにそこでは、頭が悪くて難しいことは何もわからないプロレタリアートであればあるだけ、その人間は共産主義者として優秀で、特別な発言権と説得力を党によって保障される。無知であればあるだけいい。科学文明は一切が否定され、何の知識も技術も能力も要らない世界になる。個性は否定され評価を受けない。
人間の大脳皮質は1ミリでよいという極論が事実上正当化され、生産と生活のレベルを極限に低下させる方向に社会が向かう。それは劣情の肯定と怠惰への安楽を動機とするイデオロギーだ。嫉妬で人の足を引っ張ることを毛沢東主義は積極的に肯定し奨励する。能力ある人間が能力を伸ばそうとするのを足を引っ張って、原始共産制の痴呆の泥沼に引き摺り落とし、無能と怠惰と無思考の海で群れ合うことを善しとする。ノージックは、「嫉妬深い人は、もし自分が他の誰かが持っている物(才能など)を所有できないなら、相手もそれを持たない方がよいと思う」と喝破し、平等主義の思想が人間の嫉妬を契機として「引き下げの均一化」に帰着する点を指摘している。嫉妬に注目したのはノージックの慧眼だ。リバタリアニズムが正当化されるはずはないが、リバタリアンを批判するコミュニタリアンが、こうした問題を内面的に克服できず、毛沢東思想的な「能力の拒絶と無知の癒着」のコミューンを楽園視しているかぎり、新自由主義に代わるものは絶対に対置することはできないだろう。
一般表象として日本のコミュニタリアンは癒着主義と安楽主義の傾向を引き摺る。そして政治的戦略性に決定的に欠く。新自由主義を倒すためには政治を変える以外にないのに、その客観的可能性をデザインしようとしない。惰弱と私怨と私欲で群れ睦むオラがムラを飢え求めているだけだ。個々がアウトスタンディングなパフォーマンスを志向しつつ、共通の目標を明確に持ち、最適化的なフォーメーションを組み、契約で主体的機能的に共同する集団こそが必要で、その個々の前提は、麻薬に手を出さず、劣情で行動しない禁欲倫理の保持に尽きる。人間は、能力を持つことはできなくても、倫理を持つことはできる。