
今朝のスポーツ紙は豪州戦の総括で埋められていて、その中でトルシエが試合を分析してコメントを寄せた記事があり、面白く読んだ。後半34分の柳沢敦と小野伸二の交代が失敗だったとジーコの采配を批判している。その小野伸二は、「自分が入ってから3点を取られたので、すごく責任は感じている」と反省の弁を述べている。確かに、振り返ってみれば、あの小野伸二の投入も意味がよく分からない。追加点を取りに行ったのだろうが、それなら、FWの柳沢敦を代えるのなら、大黒将志を先に出すべきだったのではないのか。後半35分からの10分間は、豪州の怒涛の攻撃ばかりが思い出されて、日本が何をしていたのか印象が薄い。特に日本の中盤の記憶がない。小野伸二の映像が浮かんで来ない。守備側ではなく攻撃側のエリアに位置していたということだろうが、小野伸二がゴール付近でパスを回していた場面の記憶がない。ほとんど映像の中に姿がなかった。小野伸二が入ると中盤の司令塔が三人になる。中田英寿はむしろやりにくかったのではあるまいか。

中田英寿が初戦前に口にしていたのは、「サッカーは走らなきゃいけないからね。点取るためには走らなきゃ」というものだった。試合前から何かチームに納得していない様子が窺われた中田英寿だが、印象的なのは、前半が終了したとき、そして後半が始まる前に、柳沢敦に向かって一生懸命に何か訴えていた場面である。あれは何を言っていたのだろう。私が想像するのは二つで、俺が敵の裏にパスを上げるからもっと速く走り込めという指示か、あるいはボールを取ったら必ず自分でシュートしろということだっただろうか。「サッカーは走れなきゃ」という言葉は、特に攻撃参加するメンバーに向かって厳しく言っていたのではないかと思われる。後半は右サイドから攻撃する駒野友一をつかまえて、同じように中田英寿が何か言っていた。「もっと速く走れ」と言っていたのだろうか。中田英寿が裏に出すパスは深すぎて、走り上がる駒野友一と距離が合っていなかった。柳沢敦は中田英寿の説得に対して、「わかってるよ」という表情で、毎度の説教に苦笑いで応えていた。

これが今の日本代表なのだ。中田英寿は得点するために厳しく統率したいのだが、柳沢敦の受け止め方には緊張感がないのである。そして速く走ろうにも、柳沢敦の現在の年齢では、あれ以上速くは走れないのだ。そしてそれ以上に、速く走れと言っている中田英寿自身が全く走れない。歩いている場面が多い。それは中田英寿だけでなく、中村俊輔もそうだし、小野伸二も走らずに歩いている。中田英寿、中村俊輔、小野伸二の三人は日本が世界に誇る天才選手なのだが、残念ながらピークを過ぎてロートルになった。ドリブルで敵を抜いて突破する技能はすっかり衰え、パスを戦略的に出すことばかり考えるようになった。そうせざるを得なくなった。中田英寿と中村俊輔のニ司令塔体制はそれなりに呼吸が合っていたが、あそこに小野伸二が入るとどうなるのだろう。中盤のバランスの危険を感じる。スター選手であるということは、プライドがあり、フィールドで指示されるよりは指示する側に立とうとする。当然だ。日本代表のメンバーには走れなくなったスター選手ばかり多い。

中村俊輔も筍を過ぎた。中村俊輔の筍は四年前の日韓大会のときだった。小野伸二も同じだ。高原直泰もそうだったかも知れない。この四年間、新しい選手が戦力として育っていない。ジーコは用兵がコンサバティブだ。名のある選手を主力に据えて任せる。その時点の能力よりも実績と名誉を重視する。自由にやらせる。トルシエは逆で、用兵がラディカルだった。天才の中村俊輔を一顧だにせず切り捨てた。中村俊輔の個人技のスタイルが気に入らなかったらしい。四年経って、確かに中村俊輔はサッカーは天才だが、コメントを聞いていると中田英寿のような知性は感じない。トルシエが何を見ていたかが分かるような気がする。スポーツ紙の記事にあったが、スペインのマルカ紙は今回の日本の初戦を、「技術のある選手がそろっていながら、ほとんどの選手が個人主義に走っていた」と評している。よく見ている。この指摘に私も同感である。ジーコの南米型の個性尊重と自由放任主義のチーム方針は、選手にはよいのだけれど、勝負となったときに結果を出せない。

日本は、この三十年間ほどだと思うが、個性重視、自由尊重を第一に掲げてやってきた。「個性尊重」のイデオロギーが社会を支配してきた。それは、近代日本の自己像(集団主義・統率主義・経済成長)に対する自己批判からのものであり、特に、どちらかと言えば左側の思想的立場がそれを牽引してきたと言える。最近、寺島実郎がその周辺の問題にセンシティブで、彼によれば、それは全共闘世代から顕著になった現代日本の思想で、私生活過剰重視主義、個人的自由偏重主義を特徴とすると言う。私は寺島実郎の切り口に共感を覚えていて、その分析をもっと深めてもらいたいと考えている。実は、それがポストモダンと関係している。あの総力戦論の社会科学の問題視角と密接に関連している。脱集団、脱民族、脱組織。そしてそれは、一方で悪魔的なリバタリアニズムに繋がって行く。当然のことだ。リバタニアリズムは、戦後民主主義の「君たちはどう生きるか」的な倫理的観点からすれば、これはエゴイズムと呼ばれていた思想性である。だが、今では正当化される。嘗ての集団主義(総力戦体制の自己像)の否定として正当化される。
「ボクの個性を尊重してくれ」、「統制はイヤだ」、「服従もイヤだ」、「自由が欲しい」、「ボクの個性と自由」。こればっかり。こればっかりの日本になった。(個性と呼ぶほどの中身もない者たちの)単なる甘えと自己中心主義。それをママがよしよしとサポートする。十年前から石原慎太郎的な右翼国家主義が勢いを得たのは、この全共闘以来の過剰な個人自由尊重主義の蔓延に対して、保守層を中心に日本人の潜在心理の中で危機感を湧出させたからではないのか。そんな具合に見えるのだが。個性尊重と言いながら、肝心なところでシュートが打てない。
