今朝(6/25)の日本テレビの「The サンデー」で光市母子殺害事件が特集されていた。一時間ほどの枠を使った大型の特集で、七年間の本村洋の映像が流されたほか、番組用に撮ったインタビューと徳光和夫あてに寄せた本村洋のメールなどが紹介された。人々の関心が高いのだろう。私は私で、本村洋のオーラルが見たくて、本村洋の映像が出るとテレビの画面に噛りついている。最高裁の差し戻し判決から一週間経ったが、相変わらずブログには「
本村洋」のキーワード検索で一日二百件以上のアクセスが来訪する。現在ランキング第5位だが、ひょっとしたら第2位まで上昇するかも知れない。すっかり本村洋の専門研究者になってしまった。今日の番組では夕夏ちゃんが誕生したときのビデオが初めて放送され、そこには妻の弥生さんの音声も入っていて、「洋に目がそっくりやもんね」という言葉に九州の訛が確認できた。
前の記事で紹介したが、弥生さんが育った地は門司である。
この山口県光市母子殺害事件は現代の忠臣蔵の様相を帯び始めている。であるとすれば、私はブログの山鹿素行だろうか。さて、内閣府の
調査によれば、わが国における死刑容認論はこの十年間増え続けていて、昨年2月に結果が公表された時点で81%が死刑容認となっている。死刑廃止の声は減り続けていて、94年に61%あった死刑廃止容認論は、04年には50%にまで減っている。逆に94年に39%だった死刑存続論は04年には50%に増えている。十年間で日本の10%分の世論が立場を入れ替えて、死刑反対から死刑賛成に回った。この背景には日本の治安の悪化と凶悪事件の多発の現実が間違いなくある。光市母子殺害事件が起きたのは99年の4月だが、世間を震撼させた97年5月の酒鬼薔薇聖斗事件、98年1月の栃木女性教師刺殺事件、99年12月の栃木リンチ殺人事件、00年5月の西鉄バスジャック事件等々、特に少年による凶悪事件が続いていた。
治安の悪化と凶悪事件の横溢に対して、日本の市民が厳罰化の方向で対処を求め始めた結果が、上の世論調査に反映されている。が、この日本の死刑容認の増加の動きは、世界の死刑廃止の流れから見れば逆行した現象である。世界における死刑廃止の流れを牽引しているのはEUで、EUは加盟条件の一つとして死刑廃止を掲げていて、そのため死刑存続国のベラルーシは欧州会議から排除されている。EU加盟を目指すトルコも、イスラム教国でありながら死刑廃止を決定している。韓国は金大中政権以降、死刑執行が停止され、現在、死刑制度を廃止して終身刑を導入する作業が進行している。台湾でも陳水扁総統が死刑廃止に賛同、死刑廃止に向けて法制化が進められようとしている。こうして見ると、89年の国連の「
国際人権規約B規約第二選択議定書」の採択以降、死刑廃止は世界の流れであり、特に先進国の中で死刑制度を存置している国は米国と日本の二国だけである。
それが世界の流れである事実は明らかだが、状況はさほど単純ではなく、例えばイタリアでは国民の40%が死刑復活を求めている実態がある。死刑廃止後に犯罪が増加した実情がそうした世論の基礎になっていると言われていて、私は日本のケースは「逆行」ではなくて、むしろ「先行」なのではないかと感じ始めている。イタリアで死刑復活の世論が50%を超えれば、それを政策として選挙公約する政治勢力が台頭するだろう。その場合は通常は右派がそれを掲げる。イタリアはEUの中核国の一国だから、仮にそうした政権が誕生しても法改正は容易ではないだろうが、EUの内部に動揺は走る。このような可能性が最も大きいと私が思うのは韓国で、次の大統領選挙でハンナラ党が政権を獲得した場合、果たして現行の死刑廃止政策はそのまま継承されるのだろうか。どうやら治安の悪化や凶悪犯罪の増加は経済の崩壊と因果関係が深い。我々が目撃した日本については確実にそう言える。
経済が没落し、失業率が増加し、中産層が破壊され、格差が拡大する社会で、人心が荒廃し、犯罪が凶悪化し、治安が悪化する。最近の盧武鉉政権に対する不支持の増加は、韓国経済の状況が悪く、大学を卒業しても就職先がなく、ホームレスが増えて格差が拡大している現実に対する国民の不満が基底にあると言われている。韓国経済も新自由主義のグローバリズムの侵食から一国独立を保持できないのだ。この後、日本のように治安悪化と凶悪事件増大という事態に繋がれば、国民世論は厳罰化を求める方向に向かうだろう。世界で最も新自由主義的な経済が回っている米国と中国では死刑は存置されている。この二つは無関係ではないと私は考えていて、新自由主義は治安の悪化と厳罰化を必然化し前提するのに違いない。ドロップアウトの生産とドロップアウトに対する処理が必要なのだ。新自由主義をよく機能させるためには、恐怖と不安が必要であり、安全を金銭で買わせなければならない。
想像だが、日本も、例えば93年の細川連立政権のような時代があのまま続いていれば、あの頃のようなマイルドな経済と政治が存続していれば、死刑制度反対の世論はさらに増え、国連の死刑制度廃止条約を批准する先進国の一つになっていただろう。我々があそこから経験したのは生き地獄のような世界で、人間が野獣になるのを見、理性は衰弱し、(EU的な)市民社会的な理念や期待はどんどん後退して行った。時間が経つほどに、この国が日本とは信じられないような社会が現出して行った。厳罰化はやむを得ない。日本のケースは「逆行」ではなく「先行」だったと言われるようになるだろう。ネグリが「
マルチチュード」で考察している三十年戦争の話が示唆的だ。暴力と野蛮と強奪と強姦と嗜虐が支配する暗黒の時代。死刑容認には意味がある。死刑から倫理を考える以外にない。革命を起こして新しい経済と新しい倫理を築くのでなければ、本村洋のような正義のカリスマに導いてもらうしかない。