
読者から「あなたはブログで左翼だの右翼だのを無闇に言い過ぎる」というご指摘を頂戴した。読者は
ブロガー同盟の一員だが、「私は右翼でも左翼でもないし、自分が左翼だと他から言われるのは大いに心外で、イデオロギー対立の時代はもう終わっていて、イデオロギー対立で今の政治を説明するのは時代遅れで、その証拠として保守の中にも護憲の人間がいるし、保守じゃないのに改憲の人間もいるが、この事実をあなたはどう考えるのか」というお叱りだった。私は、「まあ、あなたが(他から自分を)左翼と言われるのは心外だと言うのは分かるけれど、あなたのブログのTB欄を一瞥すれば、客観的に(あなたが)左翼だと言われても仕方がないと思いますよ」と返したが、実は確かに私は右翼左翼の言葉を記事の中で頻繁に使う。過剰ではないかと思うほど多用する。それには理由がある。私は私の主張があるのだ。それは、現代がまさにイデオロギー過剰の時代であり、イデオロギー対立の時代である事実を訴えているからだ。

私は、イデオロギー対立の時代はもう終わったという言説に対して、殆ど本能的に反発を感じるところがある。それは嘘だと心中で叫んでいる。イデオロギー対立は終わったとか、二項対立で物事を説明するのは無意味だとか言っているのは、相対的に左派の立場の論者である。左派の側が自己の政治的主張の説得力を作るときに、この「二項対立は不毛」の言説を持ち出すのである。旧左翼と同じではないとアピールしているのだ。具体的に名前を言えば、この種の発言をよくするのは、田中康夫、高野孟、菅直人の面々である。脱構築(ポストモダン)の風潮に便乗して、社会主義は古いと言うことで、自分の立場の時代的妥当性と状況的正当性をレトリックで確保弁証しようとしている。右翼の側は決して「イデオロギー対立の時代の終焉」などとは言わない。例えば小林よしのりはそのようなことは一言も言わない。政治に勝利した右翼はどこまでも左翼を討滅して追い詰めるのであり、地上から左翼を根絶するまで手を抜かないのだ。

勝利者となり多数派となった右翼にとって、現在はまさに掃討戦の時代であり、嘗ては左翼側から「ブルジョア新聞」と呼ばれていた朝日新聞まで左翼の総本山として袋叩きの標的にされている。読者は右翼にとってイデオロギーの時代が終わってない事実を承認されたい。私の実感からすれば、十年ほど前から異常にイデオロギッシュな時代になった。「つくる会」と「ゴーマニズム宣言」が台頭してきた前後から極端にそうなった。表を歩くとイデオロギーの針で毒々しく頬を刺されるような時代の空気になった。右翼や左翼の言葉を頻用しないと現実の状況をよく説明できない時代になった。石原慎太郎が知事になって、さらに毒々しいイデオロギッシュな成分が大気中に濃密な環境になった。こういう時代に、「右翼」の言葉を使うのが嫌だから使わず、そこから目を背けて観念の世界で「竹林の七賢」的な静穏を求めようとしても、それは生理的に無理なのだ。今の政治的現実を右翼や左翼の言葉を使わずに説明するのはリアリティを欠く。無理が生じる。

小熊英二は二ヶ月ほど前の朝日新聞の記事の中で、日本の右翼のイデオロギーには特に具体的な理念や目標はなく、どこまで調べても左翼(社会主義)に対するアンチ以外に思想の実体がないと言っていたが、基本的にそのとおりで、逆に言えば、だからこそ右翼なるものが見えにくく、そのイデオロギーを正確に捉えにくいという問題がある。多数派となった右翼のイデオロギーは、実体としては存在して世の中に大きな影響を与え続け、朝日新聞を攻撃して右に寄せ続け、筑紫哲也に異端表象を被せてそれに成功しながら、自らを中立表象化することに成功している。小熊英二に言われるまでもなく、右翼のイデオロギーはアカデミーの中にはないのだ。基本的に戦前からしてそうだった。日本ではアカデミーは常に左派が握る。貴族化しながら。岩波知識人でなければ権威を持てない。岩波系は最後まで日本のアカデミーの正統であり、政治的にはどれほど影響力を失っても読書市場では権威であり続ける。右翼がそれを覆すことはできない。

が、下から、下賎の身から右翼がチャレンジして台頭する。その典型が漫画家の小林よしのりで、見事に挑戦して思想家として成功した。私が言いたいことは、イデオロギーの時代は終わったという言説は嘘で、猛々しく日本の言論界を支配している右翼の論者たちは、依然としてイデオロギー対立の世界に生きていて、掃討戦の刃を振るっているという事実である。もう一つ事実を指摘すれば、下賎の身から出世しようとすれば、つまり東大社研から毛並みよくエリートコースを歩んで、名前で岩波から本を出してもらえる境遇でなければ、その人間は自己を保守論者として出発する以外に成功する道はないということだ。評論家として成功したい人間は自らを保守論者として定義する。現在の論壇は保守ばかりだ。保守が唯一の思想的立場であり、自分を革新だと言う人間は一人もいない。社会主義者やマルクス主義者は一人もいない。だから保守の表象を都合よくリモデルして、それを自分の看板にするのである。右翼だと不恰好だが保守だと格好悪くないのだ。

保守で護憲というのは、具体的には佐藤優がいる。その議論を読んだが、何を言っているのか支離滅裂で意味不明だった。9条を改正すると共和制になって権威と権力を分離させている日本の伝統的な国体(天皇制)の破壊になるから、それはファシズムに通じるのでそれを避けるために9条を守るべしと言っている。奇怪きわまる論理。何を滅茶苦茶なことを言っているのだ。9条を改正したらなぜ共和制になるのだ。宣戦布告なんかしなくても戦争はできるよ。英国は君主制だがイラク戦争をやっている。サッチャーがアルゼンチンと戦争するとき宣戦布告なんかしなかった。第二次大戦ではドイツに宣戦布告したが、別に英国はファシズム国家にはなっていない。佐藤優の議論は荒唐無稽で、政治学の議論として幼稚すぎて箸にも棒にもかからない。権威と権力の話は、まるで井沢元彦の聞き齧りではないか。プリミティブすぎる。佐藤優の動機は左翼の市場を自己の読者に捕捉することで、岩波の権威を借りて評論家として事業独立を果たすことである。

岩波の側の動機は、保守でも護憲というシンボルを立てることで、政治的なものである。藁にもすがる感じ。昔、丸山真男が戦前にマルクス主義者が自由主義の陣地にまで後退して戦ったと言っていたが、あの感じ。「民族の罠」は佐藤優と岩波のWinWinだ。革新という思想的立場が潰え去っているから、保守しかないから、保守で護憲が欲しいのである。それは政治上の説得力になるから。国民投票が終われば、きっと佐藤優は違うことを言っているだろう。思想として言説としてはアクロバットのパッチワークなのだ。結論だけが護憲(九条改正反対)なのである。思想のアクロバットをやる人間は何人もいる。宮台真司もそうだ。惑わされるなと言っても、基本的な学問を身に着けてない人間はアクロバットに騙されるし、次々に店頭を飾ってゆく擬似的な「説得力」の商品に目を奪われる。左翼の人間は、何でもいいから「イデオロギー対立の時代は終わった」ことにしたいのである。「冷戦時代の二項対立の認識は不毛」と、そう言ってくれる論者なら誰でもいいのだ。
イデオロギーが蔓延し社会を隅々まで支配している時代なのに、イデオロギーという言葉が過去の共産主義とのみ内的回路で直結するために、悪魔的なものを想起してしまうために、人はイデオロギーという言葉に反発して存在を認めたくないのであり、消えたものとして否定したいのだ。それは深層心理としては、自身が客観的に左翼であるという自己規定の否定衝動なのであり、要するにそこから反射的に逃走するしかないのだ。が、小学生のドッジボールと同じで、背中を見せて逃げると後ろから敵のボールが飛んでくる。右翼匿名掲示板の連中や産経新聞や石原慎太郎は「左翼」の生き残りを見逃さず、掃討戦の手を緩めない。佐藤優のアクロバチックで(荒唐無稽的に)個性的な「保守護憲」言説を精神安定剤として買っていても仕方ないと私は思うのだが。