
昭和天皇がA級戦犯の合祀に対して不満であり、その意を側近に漏らしていたという情報は、小熊英二の「民主と愛国」の「結語」の中に少しだけ出てくる(新曜社 P.821)。補注で典拠として
赤澤史朗の02年発表の論文が示されているだけで、それ以上の詳しい説明はないが、この「結語」で件の情報に接していた読者は少なくなかったのではないかと思われる。私自身はそれほど注意を惹かなかった。ありそうな話だとは思いながら、今回のようにそれを証明する具体的な史料が提出されて論じられたものではなかったからである。産経新聞や右翼の側の失意と狼狽は大きいだろう。早速、政治が動き出して、次期首相就任が確実視されている安倍晋三が8月15日の靖国神社参拝を取りやめる意向を伝える
報道がされた。ポスト小泉の一人である谷垣禎一は、NHKの番組でA級戦犯分祀を支持、靖国神社への参拝を当面控える旨の
発言をした。7/19に衝撃のスクープを抜いたのは日経新聞だが、裏で動いていたのはやはり
渡辺恒雄だったのだろうか。

新聞各紙を細かく見たわけではないが、7/19の朝刊で日経が抜いた後、同日の夕刊で各紙が一斉に記事を出していて、要するに各紙とも情報を掴んだままお蔵入りにさせ、公表を封印していた事情が透けて見える。新聞は握り潰していたとも言えるし、様子を窺っていたとも言える。赤澤史朗の論文が02年だから、新聞はせめて二年前か三年前に発表するべきだった。私が記事に接して思うところは少し複雑で、分祀論が前に出て総理大臣の靖国参拝が背後に退く政治を望むということはあるが、それ以上に昭和天皇と戦後日本の欺瞞性と虚構性という問題である。
東京裁判で判決を受けて絞首刑に処されたA級戦犯七名は、明らかに昭和天皇の身代わりとなって死刑に服したのであり、法廷での陳述も昭和天皇に身の危険が及ばぬように防衛する姿勢で終始一貫していた。東京裁判というのは、そういう意味では最初から茶番で、戦争犯罪の最大の加害責任者が免責されていて、他ならぬ裁判長のウェッブ自身が、あまりに露骨な昭和天皇の免責芝居にシラけきっていたところがあった。

ウェッブの少数意見には、「
戦争をおこなうには、天皇の許可が必要であった。もし彼が戦争を望まなかったならば、その許可を差し控えるべきであった。(中略)天皇は、進言に基づいて行動するほかはなかったということは証拠と矛盾している。彼が進言に基づいて行動したとしても、それは彼がそうすることを適当と認めたからである。(中略)いずれにしても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲君主でも許されるものではない」とある(「東京裁判」(下」 朝日文庫 P.316)。昭和天皇の戦争責任を免責し、米軍の占領統治に利用することは、最初からマッカーサーの戦略であり、東京裁判は日本の侵略戦争の真実と責任を
明らかにすると同時に、その真実と責任を隠蔽するためのものでもあった。マッカーサーの方針に従って裁判をオーガナイズしたのは主席検事のキーナンであり、東京裁判はマッカーサーとキーナンの政治であって、ウェッブ他の判事団はお飾りの人形に等しかった。

ダワーの「敗北を抱きしめて」には、訴追されたA級戦犯たちが、巣鴨拘置所に投獄されたときから、何があっても昭和天皇の身だけは守るべく、獄中で緊密に連絡を取り合って、その一事のみを目的として連携した様子が描かれている。キーナンが昭和天皇の不訴追を公式に発表したとき、獄中の忠臣たちは人目も憚らず泣き、重光葵はこう歌に詠んだ。「
大君は神にしあれば勝ち誇る敵の手出しもとどかざるはや」(岩波 下巻 P.288)。こういう事実を知れば、産経新聞や右翼でなくても、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社への合祀に不快感を示していたという事実は、やはり意外で不可解に感じられるのではないか。「敗北を抱きしめて」の中にはもっと不気味な出来事が書かれていて、判決日が48年11月12日で、刑執行日が12月20日だが、その間の11月24日にキーナンが皇居を訪れて、昭和天皇と親しく食事しながら三時間の会話に及んだというのである。その日はマッカーサーが判決を承認した日でもあり、忠臣たちの死刑と天皇の免罪が最終的に確定された日でもあった(下巻 P.277)。

キーナンは離日の挨拶に行ったという話だが、その日の皇居と巣鴨の情景を想像すると、何とも滑稽で、そして滑稽以上に憤慨やるかたない気分になる。キーナンも昭和天皇もヘラヘラ笑いながら宮中会席膳に箸を伸ばしていたのだろうか。ここに日本の戦後がある。ダワーの「敗北を抱きしめて」の面白いところは、昭和天皇を利用して日本を統治しようしたGHQが、実は昭和天皇の側にその意図を見抜かれて、逆にすっかり昭和天皇に取り込まれている真実を暴いているところにある。昭和天皇の方がGHQを飼い馴らしている。それは例えばマッカーサーと昭和天皇が会見して写真を撮った件を分析している部分などにもよく示されている(下巻 P.29)。今回のメモを読むと、昭和天皇の内面において戦前と戦後がシームレスに繋がっていて、断絶が一切なく、死ぬまで大日本帝国の帝王の気分でいたことがよく分かるが、ダワーを読むとまさに「むべなるかな」の感慨を深くする。戦後の日本国民は、昭和天皇の方がマッカーサーに命乞いして平身低頭にスリ寄ったという観念を持つが、実際には必ずしもそうではなかった。
ヘラヘラとスリ寄ったのは、米国の側も同じだったのではないか。昭和天皇を平和主義者に仕立て上げる歴史的プロジェクト。それを加藤紘一と菅直人が
また繰り返しやっている。それにしても昭和天皇はキーナンと何を話していたのだろう。