「8月15日と南原繁を語る会」への当日の参加はしないが、この講演会は本になって出る。東大出版が本にしてすぐにセールスするだろう。この企画は、当日予想される小泉首相の靖国神社参拝に対するカウンターイベントの政治的意味もあるが、それ以上に、東大出版のビジネスのためのプロモーションイベントの性格が強い。プログラムの冒頭の立花隆の演目は、「NHKに作ってもらったビデオクリップを利用して総論を語」る内容だと本人が
予告を語っている。すなわち、このイベントにはNHKも一枚噛んでいて、であれば、立花隆の講演はETVで放送されるだろう。録画の用意をして待機しよう。並んだ演題の中で最も興味を惹くのは、立花隆も言っているとおり高橋哲哉の「南原繁と靖国問題」で、今回のイベント中のハイライトであり、活字になった暁にはぜひ読んでみたい。南原繁は靖国神社に対して何を発言しているのだろう。と、そう考えたとき、ふと一人の重要な人物の名前が思い浮かんだ。
ハーバート・ノーマン。ノーマンは靖国神社についてどう対応したのだろう。これは考えてみればきわめて重要な戦後史と思想史の問題だが、私は何も知識を持っていない。ホールだ。恐らくブログの読者の大多数も同じだろう。昨年、NHKが靖国神社を特集した
番組を製作して、その第一部にGHQが靖国神社の廃止を検討しながら占領政策の都合で生き残らせたという経緯が纏められていたはずだが、残念ながら私は第一部を見ていない(翌日の第二部は見た)。ノーマンが登場する場面はあっただろうか。手元にある加藤周一編「
ハーバート・ノーマン-人と業績」を捲ってみたが、特に靖国神社問題について何か進言したという情報は見つからなかった。ノーマンは当時の日本思想史研究の第一人者である。世界的権威だ。マッカーサーがノーマンを別格の情報将校として司令部側近に抜擢した以上、靖国問題でノーマンの献策を仰がなかったはずがなく、ノーマンが意見具申しなかったはずがない。
その代わり、これまで知らなかった重大事実を発見した。巻末に付された年譜の中に「11月5日、戦争犯罪容疑者確定の資料として、近衛文麿に関する覚書をGHQ政治顧問、ジョージ・アチソンに提出」の記事を見つけた(P.306)。近衛文麿を告発したのはノーマンだった。ノーマン、よくやった。近衛文麿も昭和天皇に続いて平和主義者の仮面を被って戦争責任から逃げおおせようとしていた。確かにあのポーズに騙されかけたGHQ将校は多かっただろう。このノーマンの告発とアチソン説得がなかったら、近衛文麿の自殺はなく、さらには
広田弘毅の判決と刑死もなかった。東条英機は昭和天皇の身代わりだが、広田弘毅は近衛文麿の身代わりなのである。近衛文麿が生きて巣鴨に繋がれていれば、広田弘毅は終身禁固で済んでいただろう。南京大虐殺の責任(不作為の責任)を文官として問われた。後世の政治家への警鐘としての東京裁判の画期的意義がある。ノーマンがそこに絡んでいた。さすがにノーマン。
「人と業績」の中で、ダワーは大先輩のノーマンを、「ノーマンはこの領域(近代日本史研究)の欧米の学者として、ずば抜けて鋭く最も影響力ある地位を確立した。実際、彼以前にそのような偉業をなし得た人物はいなかった。他に誰がなし得ただろうか」と絶賛している(P.36)。この評価は妥当で過不足ない。が、ダワーの「敗北を抱きしめて」の中に、これは私の主観ではあるが、ノーマンの登場場面が少ないのである。ノーマンが戦後日本に与えた影響や事実について、もう少しフォローされてもよいのではないかという読後感想を抱く。GHQの中での存在や活動について多く言及して欲しかった。ノーマンについて何も知らない人のためには、この生方卓の
ページが参考になるだろう。「ノーマンが生きていてくれたら」は、誰もが思うことである。ノーマンが生きていたら、戦後日本は大きく変わっていただろう。日本の大学で教鞭を執っていたことは間違いなく、あの大学紛争のときにきっと何がしかのことをして残したに違いない。
丸山真男のノーマン追悼文。この歴史に残る文章を読んでいただきたい。何度読んでも涙が出る。丸山真男の文章は人の心を感動で揺さぶるが、特にノーマンへの追悼文と吉野源三郎への追悼文の二つは、胸を熱くすることなしには読めない。この二人が丸山真男の最愛の親友であり同志であったことが分かる。追悼文の件で出てくるところの、戦後すぐに若い二人が本郷で再会するときの場景が美しく、あの場面を映画かドラマで描きたい。あのノーマンが丸山真男に「しばらくでした」と声をかける場面。丸山真男はまだ駆け出しの研究者だったが、ノーマンはすでに地位と名声を築いていた。そして最高司令官スタッフとして日本民主化の執刀医の立場だった。二人はお互いを心から認め合う同志で、ノーマンは丸山真男の天才を見抜いていた。丸山真男31歳、ノーマン37歳。美しくよき戦後日本。ノーマンが生きていて、日本社会科学界の指導者であってくれたら、丸山真男はあるいは東大を去ることなく、大学に残る道を模索できたかも知れない。
本当に惜しい。カイロで自殺したとき、ノーマンは日本から送られてきた映画「修善寺物語」を見たのだと言う。工藤美代子の「
悲劇の外交官」や中野利子の「外交官 E・H・ノーマン」を読んでないので死の真相の詳細は分からないが、巷間囁かれているように、都留重人の裏切り(米上院委員会証言)による傷心が大きかったのだろうか。信頼していた日本人の仲間に裏切られたことで絶望したということだろうか。東京青山にあるカナダ大使館の図書館は「
E・H・ノーマン図書館」と命名されている。