
民主党の
憲法提言は「創憲」の思想で纏められている。その思想を一言で言えば、現在の日本国憲法は古くて時代に合わないので、新しいタイプの憲法を国民の手で作り直さなければならないという主張につきる。この主張は国民の中で果たしてどれほどの共感を得られるだろうか。正直なところ、私は民主党の創憲論に大きな違和感と抵抗感を覚える一人である。私から見て、日本国憲法は古くもないし、時代に合わなくなってもいない。日本の現在の憲法は世界史的に見て最先端の新しい憲法であり、地球上のどの国の憲法と比較しても「新しさ」の面から見て最も進んだ憲法であるという自己認識を持っている。それは私が小学校から高校までの教育で教えられてきた憲法像であり、大学の講義で確認した事実でもある。それについては
以前に教科書的に要点を整理した。例えば
米国や西欧諸国の憲法と比較して、制定された時期や原理を見ても、わが国の憲法が他と較べて「古い」という感覚や認識は持ち得ようがない。制定されてまだ六十年。日本国憲法はいつから古くなったのだろう。

民主党の憲法提言を読んでいると、何か自分が古い時代の人間であるような感覚を覚えさせられ、自分が受けてきた教育が一時代前の古いものだったのではないかという観念に強烈に捉われる。新しい憲法の理念に日本の政治や社会の実態が追いついてないのが真実であるはずなのに、逆に今の社会的現実の方が新しくて、憲法に書かれている原理が古くなっているような錯覚に陥ってしまうのである。だから、民主党の憲法提言を読んだ後に無性に調べたくなるのは、現在の大学でどのような憲法講義がなされているかという一般情報なのである。民主党の新しい憲法の考え方を聞いていると、これは日本ではなく、どこか他の国の話をしているように聞こえる。アジアに新しい(先進国の)国家が誕生して、その国民が新憲法の制定のために知恵を捻っているように見える。日本の国の憲法の話をしているとは思えない。現在の憲法との脈絡が何もない議論のように感じられる。民主党の創憲論に根本的に欠如しているのはリアリティの感覚であり、現在の憲法との繋がりの問題である。

日本で憲法問題を考えると言うときは、まずは何を措いても
九条の問題から論議され、九条をどうするかを正面から論じる必要があり、それを焦点からずらしたり、結論を後回しにしたりする憲法論は憲法論として正当なものではない。自民党の改憲論の方がよほどリアリティがあって憲法論らしい。端座して聞く価値がある。日本の憲法問題というのは、簡単に言えば九条を改正するかどうかという一点に収斂されるのであり、国民の憲法への関心もそこにある。だから、日本の政治を担う二大政党の一つが憲法論議を国民に提示するときは、一番最初に九条改正なのか九条護持なのか二者択一の立場を選択しなければならないはずである。民主党の憲法論は、政治的にこの選択の明言から逃げている。意図的に九条の選択を曖昧にして、自民党でも共産党でもない立場を仮想設定し、そこにバーチャルなリアリティを持たせるべく懸命に構造と体系をビルディングブロックした代物なのである。新しい概念と原理で構成されているように見える
民主党の憲法は、実は理念より政治的思惑が先行している。

自民党でも共産党でもない第三の憲法論を立論するという政治的必要があり、その説得力を理論演出する必要に迫られて、脱構築のイデオロギーの魔力を借りてバーチャル憲法を描き出したというのが真相である。だから子供の玩具のような、ママゴト遊びのような憲法論の印象を拭い得ない。具体的に言おう。日本で政党が憲法を議論するときは、戦後の歴史や憲法判例をベースにして、それを踏まえた上での憲法論議にしなくては、憲法論議として堅固で説得的なものにはならないはずだ。高校や大学で教育されている憲法論議の中身を基礎として、それを前提として議論提出したものでなければ、国民はそれを真面目なものとして受け止められない。まず何より九条の問題、そこには長沼ナイキ基地訴訟や百里基地訴訟の歴史がある。日米安保条約と憲法九条、そして自衛隊と憲法九条という戦後日本を貫く重い重い原理的問題がある。それは現在は米軍基地再編の問題として国民に生々しく迫られている。そこに正面から切り込んで、半世紀間の憲法論を踏まえた上での議論をしなくては、政党の憲法論は憲法論にはならない。同じく、社会的生存権をどうするかという問題に答えなくてはいけない。

25条と朝日訴訟の問題に触れなくてはいけない。日本の二大政党の一が憲法提言するというのなら、その文章の中に朝日訴訟の問題が入らなくてはならない。朝日茂の喀血する血の匂いと命の嘆きが文章の背後に滲んでいない憲法論などは、そんなものは日本の憲法論とは言えないはずだ。それは、今まさに格差問題として日本国民が凄絶に直面させられている深刻な社会問題そのものではないか。民主党の脱構築憲法には、生存権への意識や配慮が全くない。提言(
要約版)のどこにも社会生存権への言及がない。それは古いものであり、克服された過去の問題であり、カビの生えた前世紀のイデオロギーの問題だと観念処理されているのだ。本当にそうなのか。それでいいのか。憲法はただの言葉ではなく、憲法には生きた人間の歴史がある。高校や大学で憲法24条が教育されるときは、教師は生徒にベアテ・シロタの戦後史のドラマを教えなくてはいけない。信教の自由と政教分離の原理を言うときは靖国問題を論じなければならない。靖国訴訟と首相の靖国参拝について言わなければならない。
それがあってこそ憲法論と呼べるのであり、我々が民主党の憲法論議に求めているのは、そういう現行憲法に即したリアルな視角と態度と理論なのである。民主党はそういう憲法態度を「守旧的な護憲論」のレッテルを貼って一括りにして貶めている。そして新しい言葉を並べて憲法論を組み立てている。民主党のその政治的態度は、戦後の日本の国民の歴史を無視するものだ。歴史が無視されているから、民主党の憲法論にはリアリティがなく、国民への真摯で誠実な目線の印象がなく、脱構築的でアクロバティックで軽薄なバーチャル感覚しかないのである。次回は九条の問題について論じる。