それが善意の批判か悪意の誹謗中傷かどうかを判断するのは、まずは誹謗中傷(批判)を受けた側であって、誹謗中傷(批判)を発した側ではない。
今回の場合、最初にそれが誹謗中傷かどうかを判断するのは(受け手の)安倍晋三であり、そして最終的には第三者である裁判所が審決する。裁判所の判断によって誹謗中傷かどうかが決まる。多数決で決まるものではない。司法は政治とは違う。誹謗中傷を正当な批判であるとして正当化する論法は、侵略戦争を防衛戦争だとして正当化する右翼の詭弁とよく似ている。それが侵略戦争であったかどうかは、まずは侵略を受けた側の中国の人々が判断する問題なのであって、戦争を仕掛けた日本の判断や定義が普遍的に妥当し通用するものではない。たとえ日本の政府や国会が、日本国民の大多数が、あの戦争を正当な防衛戦争であると公認し宣言しても、中国や韓国の人々はその判断や定義を絶対に認めようとはしないだろう。実際に被害を受け、苦痛を受けた者が、それを侵略戦争だと言い、誹謗中傷だと言っているのである。
誹謗中傷の幇助者たちが懸命に誹謗中傷実行者を擁護して正当化する論陣を張っている姿は、靖国を正当化する右翼がA級戦犯を擁護している姿と二重映しに見える。政府がインターネットに溢れる誹謗中傷を抑止すべく法的な
環境整備を進めているのは、無論、その真の目的は、ネット選挙の時代を踏まえて政権が民衆の言論統制を図るためである。そのことは言うまでもない。だが、その政治的謀略ばかりに目を奪われて左翼が見落としているのは、ネットの誹謗中傷によって深刻な精神的苦痛を受けた夥しい数の一般市民がいて、法的な救済や追及の方途もないまま泣き寝入りさせられているという深刻な現実である。現行法では匿名者は権利主体たる法的人格を認められず、誹謗中傷を受けても加害者の責任を問うことができない。加害者たちはそのことをよく知っているから、何の遠慮なく徒党を組んで被害者に言論の暴力を加えるのであり、卑劣な暴力が事実上合法化されたまま黙過容認されている。現状では、市民は個人情報を公開しなければ誹謗中傷の犯罪に立ち向かえない。
おそらく共産党や社民党は、政府によるネットの誹謗中傷規制に反対するだろうが、そのことでネットの誹謗中傷の被害者たちを失望させ、支持を失うだろう。誹謗中傷の被害を受けた者は、ネットからの誹謗中傷の根絶を願い、自分たちの言論の権利制限の事実を承知しつつ、必要悪として政府のネット規制を支持するだろう。被害者として当然の心情と立場である。私は、確信犯の悪質な誹謗中傷者は実際に逮捕や起訴や裁判を経験した方がいいと思うようになってきた。憲法九条の日本の平和は、原爆や空襲で焼き殺された数百万の人間の苦痛の上に成り立っている。赤紙一枚で徴兵されて白木の箱になって帰ってきた幾百万の犠牲者の上に成り立っている。あの45年8月、日本人は「戦争だけはもう絶対にイヤだ」と強く思ったのであり、未来永劫の不戦の決意を誓ったのだ。「戦争はよくない、戦争はしない」と誓ったのである。われわれは「誹謗中傷だけは絶対にイヤだ」「誹謗中傷だけは絶対にしない」と誓わなければならず、遠くない将来、45年8月の日本人と同じように、心底からそう切望するようになるだろう。
今は沸騰する私怨感情のままに誹謗中傷行為の肯定を絶叫している者たちも、いずれ誹謗中傷によって失われたものの大きさに気づく日が到来する。何故と言うに、45年8月までは、圧倒的多数の日本人は、「戦争は悪くない」と思っていたのであり、「鬼畜米英を叩き潰す戦争は正しい」と思っていたのであり、太平洋戦争は神聖な防衛戦争であり、日中戦争は不埒で生意気な蒋介石に対する日本の親身の掣肘行為だった。敗戦で考え方が一転したのであり、その後の日本人は「戦争は絶対悪」だと言い、「二度と戦争はしない」と言い続けてきたのである。戦争を肯定してはならないように、誹謗中傷を肯定してはならない。誹謗中傷はネット市民社会の絶対悪であり、誹謗中傷反対は無前提で説明不要な絶対真理である。戦前の日本人は、戦争反対を説いた者に石を投げ、反戦を貫いた者を投獄させ拷問死させた。今の左翼は、誹謗中傷反対を訴えている者に唾を吐き、集団でリンチして叩き潰すように扇動している。日本人は、数百万の犠牲を出し、敗戦と占領を迎えたとき、初めて反戦思想者たちの主張を認め、その名誉を回復した。
正当な批判と誹謗中傷は何が違うか。繰り返して言うが、それは受け取った者がまず感得することである。争いになれば第三者(裁判所)が判断することである。発した側が誹謗中傷ではないと主張しても、それだけで認められるものではない。小学校の教師が六年生の生徒に諭すようで気恥ずかしいが、経験から言えば、内在的で有意味な批判なるものは、それを受け取った者が「批判」として受け取るのではなく、提言や助言や啓発や激励として受け取るものである。その「批判」が提言や助言や啓発や激励とならず、誹謗中傷として受け止められてしまうのは、多くの場合、発した側の「批判」の中に、悪意や敵意や不信感などの相手に対するネガティブな感情や意識が含まれている場合であろう。そして、第三者(裁判所)がその行為を不当な誹謗中傷かどうか判断する基準は、どこまでも人間の常識なのであって、言語の定義の問題ではない。したがってそれを誹謗中傷だと相手に受け取られた場合は、自己が言葉した「批判」の中に、悪意や敵意や不信感が1グラムも混入してなかったかどうか真摯に反省するべきである。だから、基本的には、
「批判」を発した側は、正常な常識と感性を持った者ならば、それが内在的な批判か誹謗中傷か、最初から認識できていて判断に迷うことはないのだ。相手への悪意や敵意や不信感の存在を自覚しながら、それを内的に隠蔽して、正当で有意味な批判だと正当化するのは、態度の問題としてやはりどこに自己欺瞞がある。きっと心の純粋な小学生には、この説教を理解してもらえるだろう。