今年は秋の訪れが早い。去年の今頃は総選挙一色で、9月になっても季節が変わったという感じがせず、真夏がずっと続いていた。いつから秋になったのか覚えていない。時代も煮詰まってきたけれど、ブログの世界もかなり煮詰まってきた。一昨年からブログを始めた者たちはその感を強くしているに違いない。ブログにロマンがあったのは昨年までだった。新しい文化創造の可能性を実感させ、人々の期待を集めていたのは、草創期のごくわずかな一瞬だけで、現在はすっかりその期待が萎んでしまった印象がある。後から参入するブログほどレベルが低く中身が薄い。私がブログを始めた頃は、右翼ブログの中にも見るべきものがあったが、今はそういう佳作が影を潜めてしまった。生産的なブロガーほど撤退の足を速めているように見える。簡単に言えば、早く始めた者は、得るものを得て卒業したということなのだろう。早期に始めた者と後発の者との違いは、早期の者は他人がやっているのを見て始めたのではなくて、こういう新しいシステムを待っていた人間たちなのだ。
最初からチャレンジの意思と目標を持っていた人間たちであり、ブログという新しいツールに飛びついて自分のイメージ(理想)を形にした人たちである。ブログが単なる趣味ではなく人生の手段であった者たちだ。身近なところでも、結果的にだが、政治家をめざす者の有効な情報媒体として活用された
成功例がある。それでいい。私はブログをマスコミに並ぶ高いレベルの言論拠点にしたかったが、現実的にはそれは不可能だった。私が孫正義のように億万長者で、優秀なブロガーに資金を提供できれば、あるいはそれは可能だったかも知れない。この半年ほど、政治ブログの言葉使いはどんどん汚くなって、掲示板と全く変わらないレベルにまで落ちた。新しい言論空間が提供され、そこに可能性の花が咲いて、それがすぐに萎れて墜ちるのは、これまで二回経験があり、86年から二年間の無手順通信がそうであり、95年から二年間のインターネットがそうであった。無手順は89年には駄目になっていたし、ネットは(HPも掲示板も)98年には人がいなくなっていた。
全体が駄目になると、運動を成功させて世界を変える未来は諦め、古典として残る可能性を選ばざるを得ない。鳥越俊太郎の『
オーマイニュース』は期待したいが、鳥後俊太郎が言っているとおり、結局のところ、人を発掘できるかどうか、人がいるかどうかで、それは私も同じだった。関連する話題で言うと、一年ほど前にウィークリーマンションのツカサが似たような
ネット新聞の試みを始めて、私のところにも編集部準備室からメールが届いたことがある。ぜひ記者登録してくれという内容で、暫く様子を見ていたが、そのうちサイトをチェックすることもなくなって関心の外に外れてしまった。今でも続いているようだが、それほど世間の関心を集めてはいない。「オーマイニュース」はどうなるだろう。市民新聞というコンセプトでは『
JANJAN』もある。金が流れる仕組みができればうまく立ち上がると私も思っているけれど、基本的に市民記者で価値を持ち得る情報発信は二次情報であり、注目が集まるのは評論になる。人が出て来るのを期待したいが、簡単に出て来るとは思えない。
これも不思議なことだが、政治家としてはセンス抜群な天才を
二人発見したが、ジャーナリストの才能を発見することができなかった。文章を書ける人間がいない。プリミティブな感情の露出か、左翼政党の機関紙のコピーペーストのようなものばかりで、本格的なものがない。文章のレベルという点では、おそらく十年前のネット草創期の掲示板の方が上だっただろうし、二十年前の無手順時代の方が現在よりはるかに上だろう。日本人の国語力の低下がそのままネット上に反映している。この実感については共通のもののはずだ。確かにインターネットは便利で、座ったままいろいろな情報や知識にアクセスできるが、インターネットだけを読んでいると確実に頭がバカになる。文章のレベルが落ちる。構成や論理や表現への配慮が杜撰になる。ブログ草創期の
文章家たちが次々と離れて行っている理由の一つは、ひょっとしたらそこにあるのではないか。しかもネットの悪いところは、レベルの低さを「庶民の目線」の論理でスリカエて正当化するところにある。文革の論理。
生産力のレベルを上げようという方向を摘み取る。結果的に全体の足を引っ張る。若い人がブログを読んでいれば、なるべく本を読む時間を増やすように忠告をしたい。それから、これから記事を書いてブログデビューしようと考えている人は、一個一個の記事を作品として意識して欲しいと思う。作品主義のブログスタイルを提唱したい。柄谷行人が「
群像」の新人賞選考審査の基準について「
基本的に読み込んで行けるかどうかだね」と語っていたが、まさに同感で、小説であれ、批評であれ、それは同じである。それから、本を読むようにと言ったけれど、経験から言えば、やはり本を読むためには学校でそれなりに勉強をしていないといけない。自己増殖できる知的関心のアンテナとエンジンの原型を作る必要がある。だから学生の人は、学校の講義を疎かにせず、学問に関心を持ち、積極的によい教師を見つけて、成績優秀で卒業することを考えて欲しい。年とった人間は若い人間に「勉強せよ」と言うしかできないが、やはりそう言うべきで、「勉強するな」と言うべきではない。
「勉強なんかしなくていい」と言い続けて、脱構築に騙されて、国を駄目にしたのがこの二十年だった。それにしても、正直なところ、ブログを見ていると、自分が住んでいる国が人口1億2千万人の先進国の日本だとは思えず、何か三宅島か八丈島ほどの面積と人口の国なのではないかと最近は思えてくる。本当にこの程度なのか。