ケネー経済表とマルクス再生産表式の意義について、われわれの時代は教養から学部にかけて繰り返し学ばされた。その社会の生産と消費の全体構造を一つの循環範式によって総括的に説明し、立ち現れる利害者とその活動を一望の下にする経済科学の方法。高校の授業では、「ケネー・重農学派・経済表」という単語だけを覚えさせられて終わりだが、大学では実際にケネー経済表の現物を学ばされる。それだけでも大学で勉強するということは素晴らしい。講義ではケネー経済表の理論がフランス革命に与えた決定的影響について突きつけられ、その歴史の真実に学生たちは思わず息をのまされる。学問の力の偉大さに慄然とする。当時の大学では全国どこでも似たようなことを教えていたから、われわれの世代では共通にケネー経済表の教育体験を持っているだろう。ケネー経済表的な視角で現状を分析したエコノミクスを読みたいと思っているが、そういう
良質な本が最近はなかなか出版されない。
吉川元忠の『マネー敗戦』が最近ではそのイメージに近かった。教養部でケネー経済表を講義してくれたその教官は、「エコノミクスとポリティカルエコノミーとは違うのだ」と言うのが口癖だったけれど、吉川元忠の『マネー敗戦』はまさにポリティカルエコノミーの範疇のものだったと言えるだろう。当時、それなりに話題を呼んだが、その問題意識を引き継ぐエコノミクスやポリティックスは社会の主流にはならず、逆に新自由主義ばかりが世の中をローラーして行った。吉川元忠的な思想を理論的基礎にした政治勢力が必要で、本当なら民主党がそれを担うべきだったが、当時の民主党は新自由主義の牙城となり、俺様こそが「小さな政府」の司令塔だと言わんばかりの景観だった。最近、ブログ情報で吉川元忠と
関岡英之の関係を知り、無性に興味を掻き立てられるが、若い関岡英之に吉川元忠の方法を引き継いでもらって、できればケネー経済表的な範式分析の経済学に挑戦してもらいたいと願っている。
ケネーの場合は、特権階級(地主)と生産的階級(農民)と非生産的階級(商工業者)の三階級が出てくる。マルクスの場合は資本家階級と労働者階級の二階級で表現される。ここに、現状の日本経済を再生産論的に分析する方法的視角として、例えば
米国資本という要素を入れ、
官僚行政という要素を入れ、利害者が連関する循環範式のモデルを組み立てて、一表の下に構造と運動の全貌を解き明かすことができたなら、その経済学の説得力で日本を変えることができるのではないか。理論の力で暴露することで、新自由主義と癒着した日本の政官業の構造体の没落を証することができるのではないか。そういう「資本論」的野心をずっと考えながら、誰かがやって見せてくれないものかと待っていたが、なかなかエキスパートが現れてくれない。考えてみれば、マルクスも経済学の専門家ではなく、ケネーも宮廷医師だった。ケネーはポンパドゥール夫人の侍医で、経済学の勉強を始めたのは60歳を過ぎてからである。
マルクスはどうかなと思って調べたら、やはり『経済学批判』が41歳のときで、『資本論』の第1巻を出版するのが49歳、それほど早い時期から経済学の研究を始めていたわけではない。専攻は哲学。自分でチャレンジするということを真面目に考えてもいいのかも知れない。ジュンク堂書店の「
社会・経済・法律」のランキングページをいつもチェックしているのだれど、もう何年も食指が動くエコノミクスが出て来ない。そう思いつつ手元の本を捲っていたら、マルクスについて次のように書かれた箇所があった。「
あるときのマルクスは食物を買うわずか6ペンスを手に入れるために、6時間も走り回らなければならなかったと後に書いている。主な生活手段は友人からの借金と、わずかな手持ちの衣服を質に入れることであり、原稿用紙さえ質に入れた金で買った。また、マルクスと敵対する同盟のある者は、彼の記事に中傷を繰り返し、あるときは憎悪をこめて、奴は今でも労働者を食いものにし、独裁を狙っていると誹謗した」。
マルクスを誹謗中傷する「仲間」がいたとは驚きだが、よく接近して見ると、1864年創立の第1インタナショナルも決して平穏な運営だったわけではなく、毎日が論敵との闘争で、そのため『資本論』は第1巻が1867年に出版されたあと、再生産表式論を含む第2巻以降は死ぬまで出版されなかった。この頃、マルクスは34歳のときに三女のフランチェスカ(1歳)を、37歳のときに長男のエドガル(8歳)を病気で失っている。極貧のマルクスは死んだ子供の棺を買う金も無かった。エンゲルス宛の手紙にこうある。「
僕の妻のイエニーは精神的興奮のために神経熱に侵され、この一週間というもの、今までにないほど弱りきって、くずおれふせっている。心は血を吐き、頭は燃える思いだ。子供は病気の間中、あの子特有の気立てのよい、しっかりした気性を一瞬たりとも失ったことはなかった。だが、君も可愛がってくれたエドガルは、僕の腕の中で火のように熱くなり、そして今、冷たく眠り込んでしまった。どんなに悲しくつらいか、それはとても書けたものではない」。
棺を買う金も無いほど窮迫していたのだから、当然、医者に診せる金も無かったのだろう。その『資本論』第1巻の序文の末尾には、ダンテの言葉が引かれて、次のように記されている。「
汝の道をゆけ、そして人にはその言うところにまかせよ」。丸山真男はこの序文の言葉が好きだったようで、著作の中でも二度ほど紹介しているのを見かけたことがある。
ブリュッセルで第1インターを創立して指導したマルクスの前には、四つの勢力の論敵たちとの闘争が待っていた。① 英国の議会主義者との戦い、② フランスのプルードン主義者との戦い、③ ドイツのラサール派との戦い、④ 無政府主義者バクーニンとの戦い。ヨーロッパの労働者組織を敵に回して孤軍奮闘するマルクス。大会ではプルードン派の代議員がマルクスをこう罵倒した。「あんたは労働者を私有物のように使って煽り立てている。あんたは野心に満ちた民族主義者だ」。マルクスは怒り心頭に達して、エンゲルスに出した手紙の中で次のように書いている。「白痴で無恥のプルードン派のバカどもには、次の大会でとどめを刺してやる」。闘争心旺盛なマルクスらしい。ヨーロッパの労働者階級が一つの思想の下に一致団結して闘争する目標は、結局のところ、マルクスが死ぬまで実現することはできなかった。やや意外な感じがする。