
昨日(10/30)、編集者と八重洲BCの中二階喫茶店で二度目の打ち合わせをした。順調に行けば、11月下旬にも新刊を店頭に並べることができる。今度の話は突然だったが、なぜ私のところに話が来たのか、打ち合わせの後で4階に上がって本棚を眺めたとき、その真相がわかった感じがした。丸山真男が大ブームなのだ。夥しい数の丸山真男関連本が出版されている。私はこの五年ほど丸山真男からは遠ざかっていて、アカデミーの動向を注目していなかったが、あれもこれもと想像を絶するほどの量が出ていて、書棚の前で立ち眩みがするほどだった。今回の本は拙いものだが、私は丸山真男研究とその思想像の理解において決して他の研究者に負けているとは思っていない。否、むしろ丸山真男の正確な理解へと読者を案内するのは、他の有名な研究者たちではなく自分だと自負している。他の誰よりも「
丸山関連本を読むな、丸山真男の著作を直に読め」と口を酸っぱくして言っているのは私だ。

その点が他の研究者と私とを決定的に分かつ点である。朱子ではなく孔孟に帰れと説いたのは仁斎だった。中国語ができなければ原典の理解はできないと言ったのは徂徠だった。原典を読まねば丸山真男は理解できない。小熊英二や米谷匡史や姜尚中や苅部直の「丸山真男」は死んだ思想家であり、戦後というモノクロ映像の過去の時代に活躍して役目を終わった思想家である。それは「戦後民主主義」という貶損表象の言葉と接着されていて、現在の日本人が「鑑賞」したり「回想」したりする思想対象である。私の丸山真男は生きていて、今でも口を開いて熱く語っている。私は丸山真男から学ぼうとして読み、彼らは丸山真男を貶すために読む。私は日本の民主主義を守るために市民に丸山真男の読書を勧め、彼らは丸山真男を貶した文章で小銭を稼ぎ、脱構築主義(=近代否定・国民否定)が支配するアカデミーで身を立てるために丸山真男を道具にする。そこが彼らと私との決定的な違いだ。

最近出た本の中に河出書房新社の『
丸山眞男』がある。今回初めて手に取って読んだが、巻頭に「丸山真男の神話と実像」と題された小熊英二の小論があった。実は、『民主と愛国』の丸山真男論も相当に問題が多いと思われるが、この小論にはさらに容易に看過できない問題点が含まれている。私は、一般読者がこの小熊英二の議論に影響されて、誤った丸山真男像の理解に導かれることを大いに危惧する。結論から言えば、この小論は丸山真男の思想を歪曲して素描したもので、決して「実像」を紹介したものではない。小熊英二の論旨は、要約して言えば、これまでの日本人は(右翼も左翼も)丸山真男を戦後民主主義の巨人として過大評価しすぎてきたとするものである。実際の丸山真男はそのような戦後民主主義の巨人などではなく、戦後すぐの頃は無名の研究者であり、五十年代後半からはアカデミズムに沈潜した人だったと言っている。「超国家主義の論理と心理」の反響も大きくなかったと言っている。
「こうしたことから、『戦後民主主義のチャンピオン』=丸山真男という図式が、五○年代末から六○年代以降にできあがったのではないか。しかし現実の丸山は同じ時期にアカデミズムに沈潜しつつあったわけで、そこに「神話」と「実像」にギャップが生じていったわけです」(P.14)。『民主と愛国』での書き方もそうだが、小熊英二の場合、その歴史的人物像についての評価や観念に対して、本当はそうではなかったという 「覆し」の方法で読者を説得する。小熊英二に感じるのは、その方法への過剰な執着で、自分が虚像を壊して実像を対置するのだという無理な気負いである。この場合もそれが出ていて、「戦後民主主義のチャンピオン」という言葉自体が少し奇妙で、そういう言葉で丸山真男をこれまで表現した論者がいただろうか。ぜひ事例を挙げていただきたい。普通は、「戦後民主主義のリーダー」という呼び方をする。「リーダー」ではなく「チャンピオン」という表現に小熊英二のある種の作為と操作を感じる。

「超国家主義の論理と心理」の反響の大きさについては、日高六郎やその他大勢の証言もあるし、これを「神話」と断定するのは無理があろう。また、五○年代末から六○年代の丸山真男がアカデミズムに沈潜しつつあったというイメージを誇張して言うのも誤りで、それなら六○年安保のときの「復初の説」や「三たび平和について」演説は一体どうなるのかという反論が成り立つ。丸山真男が「戦後民主主義のリーダー」となったのは、何と言っても「講和問題」と「安保闘争」の二つの局面での活動が決定的な意味を持っていて、すなわち、戦後日本の大きな節目で体を張って民主主義を守るべく奮戦したこと、その行動こそが丸山真男の実像として読者に紹介されるべきことなのである。その点については三木睦子の証言こそが正確で、三木睦子や日高六郎の説く丸山真男像こそが実像として確認されるべきものである。小熊英二の「丸山真男の実像」は実像ではなく、歪曲であり、むしろ(脱構築主義的な)誤った神話に読者を導く。
ブログ記事一回分の容量では具体的な論証は何もできず、詳細は他日を期したいが、簡単に言えば、小熊英二の「歪曲」の中身は、われわれが過大評価しているとする誇張された丸山真男像(=実際には小熊英二自身が自ら誇張して作っ丸山真男像)を否定して、これが真の丸山真男の実像だと(小熊英二が用意した丸山真男像を)提示しているトリックにある。巧妙な論理で、あたかも戦後の日本人が丸山真男に対して誤ったイメージを持っていたように示しているのである。小熊英二の「実像」抽出の作業は、「丸山真男の過大評価の否定」の作業なのだが、実際にやっているのは、実は丸山真男の矮小化に他ならない。丸山真男を(おそらく意図的に)矮小化して、矮小化した丸山真男の像を実像だと言い上げている。これはいかにも現代風の思惟様式のなせる業であり、動機としてカリスマ否定があり、さらに「物語」否定の衝動があり、さらに言えば、現代肯定と自己肯定の思想がある。丸山真男の相対化の作業であり、丸山真男を相対化するために、わざわざ「戦後民主主義のチャンピオン」などという聞きなれない(浮薄さを印象づける)言葉を持ってきているのである。
この小熊英二の「歪曲」に対して反駁を加えようとするとき、さしあたって二つの証言を示すのが適当であると思われる。果たして日高六郎と三木睦子は虚偽の証言をしているのだろうか。
未知の丸山真男の名前をはじめて知ったのは、雑誌『世界』の一九四六年の五月号に掲載された「超国家主義の論理と心理」の執筆者としてでした。あの文章は敗戦後の私にとっては、ひとつの精神的大事件でした。読み終わったときの強烈な感動! それは戦前・戦中の日本人の大半を縛りつけていた絶対天皇制についての、これ以上考えられないほどに見事な分析・批判でした。もちろん天皇制については、戦前から日本のなかでも、とくにマルクス主義の立場からのきびしい批判がありました。しかし丸山論文は、そうした発想からはなれ、いわば丸山さん独自の思想史的分析であったことに、私はいっそう驚き、ますます共感を感じたのです。ともあれその日から、私にとって丸山真男の名は、最も気になる存在となりました。
(『同時代人 丸山真男を語る』 日高六郎 P.43-44)
その当時、毎日先生は東大の学生達と一緒に国会周辺をデモって歩いておいでだった。若い人達とデモ行進を一日中なさってお疲れであろうに途中下車をなすって我家に寄って下さる。三木も待っていましたとばかりに「さあさあ、おあがりなさい」と引張りあげるように通っていただく。二人ともそれぞれに言い分があってのことだろうが、一歩もひかずに互いに相手を説得しようとしてやむところを知らない。夜更けてまた明日があるからとお帰りになるのだが、その姿は決して疲れはてた人のようではない。二人とも主義主張のためには労を惜しまないという所があった。警察官との応酬の中に東大生、樺美智子嬢が犠牲になり、国会は会期を五○日も延長したにもかかわらず、冒頭採決という強行手段によって安保改定が決定してしまった。議会制民主主義の建前からも許せないと、三木は箱根山を駆け登って強羅の奈良屋に総理岸信介氏を尋ねて抗議文をつきつけるという一幕もあった。茫々三五年うたたの感がある。あの頃は丸山先生もお若かった。三木もまだまだ元気だった。
(『丸山真男集 第八巻 月報』 三木睦子 P.4)