あいかわらず
山口母子殺害事件への関心が高く、それがブログへの集中豪雨的なアクセスとして結果している。今回は三日間の審理で五年半ぶりに加害者による証言があり、またその証言があまりに異常で倒錯した内容だったため、一か月前の前回を上回る大量の検索訪問が放置ブログの過去記事に殺到した。この事件と裁判への社会的関心は、決してマスコミが無理に演出しているものではない。マスコミが意図的に世論を操作扇動しているのではなく、むしろ逆で、世間の関心の高さと圧力に引きずられて、報道番組やワイドショーの主要素材に組み入れているのである。視聴率が取れるのだ。正義の象徴である本村洋と邪悪の象徴である安田好弘を画面に映し、そのコントラストを定番映像として放送することで、他のニュースソースを編集するよりも高い視聴率を稼げるのである。マスコミが一方的に作り出している関心ではないという事実は、まさにインターネットの中で事件と裁判の議論が沸騰して止まない状況を見てもよく分かる。ひょっとしたら年金以上に高い関心がある。
年金記録の問題が表面に出た途端、憲法改正の賛否は国民の関心の背後に退いたが、その年金問題でさえも、山口母子殺害事件の新しい裁判報道が割り込むと、急速に論議の熱を失って関心の圧力が低下してしまうのである。誰もが年金問題そっちのけで少年法や死刑廃止論を口角泡飛ばして激論するようになっている。これは何故なのか。要するに、今の日本人は、生活の再建を求めているけれど、それと同じほどに正義の復活と実現を求め、倫理の再建を希求しているということだろう。そうした社会的渇望と言うか、根本的な喪失感と飢餓感のようなものがわれわれの内側にあり、それが山口母子殺害事件への関心として噴出しているように見える。この国に正義を蘇生させるカリスマとして本村洋を求め、その勝利を待望しているように見える。人はパンのみにて生くるにあらず。われわれは息苦しいのだ。息苦しいのは生活の苦しさのためだけではない。安心して暮らせる社会というのは、経済的な収入や負担の問題だけでは決してない。息苦しいのは正義と倫理の欠乏による。
毎日毎日、親が子を殴り殺し、子が親を刺し殺す絶望的な
ニュースを見なければならない。そこで噴き上がる懊悩と嗚咽を喉の奥にぐっと埋め込んで、日常を送らなければならない。その精神的な苦痛は、生活を切り詰めて生きる苦痛と真に等しい。もう耐えられないのだ。精神の免疫耐性が限界に達して悲鳴を上げているのだ。助けてくれと叫んでいるのであり、その叫びは、あの番組で高田万由子が見せた憤怒と激情と絶叫と同じなのだ。われわれは救済されたいのであり、そうした絶望的で不条理な現実を見ずにすむ健全な日本を再生したいのであり、再生できる契機(可能性)を探し求めているのである。その唯一の現実的可能性が本村洋のカリスマであり、
現代の忠臣蔵が成就するドラマ(物語)への参加なのである。私はそれを「現代の忠臣蔵」と呼んだ。忠臣蔵というのは日本人の精神性にとってきわめて重要で、中国人にとっての三国志演義に匹敵する思想的意味を持っている。丸山真男の『日本政治思想史研究』の徂徠論二論文は、近代的思惟論であると同時に忠臣蔵論でもある。
忠臣蔵は日本人の精神のカーネルの一部になっている。日本人にとっての「正義とは何か」がそこにある。われわれは内面を打ち砕かれる時代の息苦しさの中で、小雪の舞う本所松坂町から三田泉岳寺までを凱旋して歩く義士を見送る江戸庶民のカタルシスへ、きっと鮭が生まれた川の上流へ上るように自らを向かわせようとしているのである。今度の山口母子殺害事件も、元禄の赤穂浪士事件と同じほど巨大なインパクトを日本の政治思想史に残すかも知れない。われわれは気がつかないけれど、それくらい大きな歴史的事件(物語)が目の前で進行しているのかも知れない。私の記憶では、2003年の総選挙(あるいは2000年の参院選?)の争点は「治安回復」だった。明確な争点として設定されなかったかも知れないが、国民が政治に要求する緊急の政策の第一は「治安の回復」だったはずだ。酒鬼薔薇聖斗事件があり、福岡西鉄バス事件があり、
栃木リンチ殺人事件があり、大阪池田小学校事件があり、治安の回復は国民にとっての焦眉の課題であり、それは正義の問題でもあった。
正義の回復、倫理の再建。すなわち社会の正義の剥奪と倫理の破壊。そうした思想的問題は、十年間以上ずっと深刻に引きずっていて、今日の教育再生の議論や政治に繋がり、教育基本法改正や憲法改正の
政治に繋がってきた。人間を根本的に変えなくてはいけない、戦後日本の精神と教育のあり方を根底から見直さなくてはいけないという危機感と焦燥感に繋がり、国民的な多数世論になっていた。その世論をリードし、支持を受けたのが、『ゴーマニズム宣言』を筆頭とする右翼の教義と洗脳だった。正義と倫理の回復が言われ、国家と教育の役割が問われたとき、問題提起として多数の共感を獲得したのは右翼の説教だった。左翼はその課題と要請に応えて支持を受けることができなかった。日本の左翼には正義や国家を嫌忌し侮蔑する独特の思想的傾向がある。それと正面から対峙しようとしない。「ボクは国家権力は嫌いだ」とか、「正義を大上段に振りかざすのはダサい」などというネガティブで斜に構えた態度を無条件に容認する性癖がある。責任や秩序からの逃避を積極肯定する風潮がある。
日本左翼特有の四畳半フォーク的な虚弱至上主義と無責任主義がある。誤解を恐れず敢えて言えば、日本の左翼は正義が嫌いであり、正義を正面から語り論ずるのが面倒で億劫で苦手である。正義的なもの、正論的なものに対して抗原抗体反応を起こすのが日本左翼の体質であり、そういう正義拒絶の遺伝子を払拭できない。だから本村洋のような正義の英雄が颯爽と登場したときは、本能的に拒絶反応を起こし、石を投げつけ、唾を吐きつけようとするのである。正義排斥の日本左翼は、社会を概念と理論で設計・構築しようとせず、薄暗く陰湿な裏部屋の擬似的共同体を生息環境とし、そこに逼塞して内側に呟きとスローガンを共鳴させる。だからブログ左翼には個性がない。名前と中身を入れ替えてもどれも同じだ。テーマも言葉も文章も全く同じ。正義や倫理、国家や組織、そうした問題に背を向けて、趣味的な小共同体レベルで自己満足に溺る傾向は、全共闘世代以降に支配的となった。それを合理化し補強したのが80年代に安輸入した脱構築主義で、現在の官僚世界(大学・官庁・
法曹)の主流である。
『ゴーマニズム宣言』がラディカルな説得力の仮面を持ち得るのは、そういう思想的な背景と構造があるからだ。
1. 本村洋の復讐論と安田好弘の怠業 - 山口県光市母子殺人事件
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4. 本村洋の道義的責任論の説得力 - 最高裁差し戻し判決を寿ぐ
5. 大津島の夕陽と夢の中の錦帯橋 - 本村洋における偶然と必然
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7. イスラム法とシンガポールの厳罰刑 - 官僚司法の限界と無責任