
阿久悠は私の精神のカーネルの一部である。UNIXについて知識を得たとき初めて知ったカーネルというIT用語を、政治思想史学の分野における有効な方法的概念として応用できないかと着想したのは今から二十年以上前のことだったが、特にそこから概念の学問的精製や鋳直しを本格的に進めることもないまま、けれども私は私の言語としてこの言葉を躊躇なく十年以上も使い続けている。その作業の報告や学問的な提案はブログではなく別な場で挑戦を試みたい。だから、ここでは比喩として無前提に使うけれど、私のカーネルを構成する要素には、他に
ジョンレノンがあるし、それから手塚治虫と梶原一騎と小池一雄がいる。それは取り替え不可能なもので、生涯にわたって関心のエンジンを方向づけ、善悪と良不良の価値判断、快不快の感覚反応を規定づけるものである。

それは、別の言葉で言えば、70年代的なものであり、文化表象として現代の日本人一般から、暗然とあるいは公然と、隔絶感と否定と軽侮と嘲弄の対象にされているものである。現代の日本人は80年代をそれほど遠いものとは考えていないが、70年代は嫌悪と侮蔑を与えて当然の暗黒時代のようである。70年代末から80年代初にかけて日本の思想的環境は大きく変わった。日本人は自らの過去を否定して、新しい感性と常識を身につけて生まれ変わった。そこには断絶がある。断絶は井上陽水の沈黙と前後の作風の変化を見ても容易に想像できるし、あの伊勢正三のストラグルを見ても理解できる。天才たちが煩悶し苦悩し、時代に身を合わせて突き抜けた。新しい時代の感性と常識からは、70年代の文化と思想は「ネクラ」で「ダサイ」ものであり、総がかりで揶揄と罵倒を浴びせて排斥しなければならないものだった。その中心に
中島みゆきとともに阿久悠の存在があった。

晩年の阿久悠は、「音楽は世代を超えて認められるものでなければならない」ということを語っている。それは、現在の軽薄で無能な若い音楽家たちの作品に対する批判であると同時に、自分の作品が「70年代的なもの」として不当に矮小化され、貶価と侮蔑の対象にされたことへの抗議の言葉でもあったに違いない。80年代以降、日本は「お笑い」の時代となり、テレビは「お笑いファシズム」の世界となり、意味や概念を真面目に前向きに考える態度は窒息させられ、閉め出され、生きる場を与えられなくなった。それはテレビだけでなく、学校でも職場でも。日本人は概念し思考してはいけなくなった。知識は持ってはならず、持っていても口に出してはならず、白痴のように「ギャハハ」と笑い、「キモ」だの「ウザ」だのを繰り返すことだけが奨励された。男は「オヤジ」となり、オヤジの表象を与えられてオヤジの言語が要請するスタイルに身を合わせ、オヤジの生き方をしなければならなくなった。

阿久悠の作った歌はほとんど好きだが、特に好きなものとして『五番街のマリーへ』と『時代おくれ』が思い浮かぶ。『五番街のマリーへ』は『ジョニーへの伝言』と一体の連作で、二作は同じドラマの前編と後編になっている。テレビに高橋真梨子が出て、イントロが流れ、『五番街のマリーへ』を切なく歌い始めると、時間が止まって身動きができなくなってしまう。そこには立体的な情景があり、男と女の哀しいドラマがある。『ジョニーへの伝言』を聞いている者は、それが哀しい物語への追想だと思いを馳せる。自分の人生とは空間も違い境遇も全く違うけれど、前編の歌に出てくる「元の踊り子」に戻る女に共感し、感情移入して、センチメンタルな世界にすっぽりと浸るのである。概念的で構成的。センスがよくてきれいな世界。恋人にするなら、こういう曲を好きな男や女を相手に選びたいと誰もが思った。あの頃の日本人は誰でもそう思った。内面に骨太なロマンティシズムを持っていたから。

糸魚川-静岡構造線、フォッサマグナと呼ばれる大きな断層が日本列島を二つに折っていて、西から水平に伸びてきた線がそこからボキッと折られて南北に線の方向を変える。ボキッと二つにへし折られた日本列島は80年代以降の日本の風景のようであり、ボキッとへし折られた背骨の実体は、一言で言えばロマンティシズムの感性と倫理ではないかと思う。ロマンティシズムの背骨をへし折られて、ただ宙に浮くように、生命力を失って萎え衰えているのが、80年代以降の日本列島ではないのか。日本人が70年代的なものを自己否定したのは、そこにきっと政治思想的な意味があり、それは70年代半ば、日本人の半数が革新自治体の住民だった事実と無関係ではないはずだ。大都市の住民は社会党と共産党が推薦する革新候補に投票して首長に選んでいた。そのあたりのところをトータルに解析してくれる政治思想史学の出現を私は何十年も待っているけれど、その課題を引き受けてくれる知識人を見ない。
アカデミーもまた「脱構築ファシズム」的な「お笑い」軟体動物の世界となり、ロマンティシズムや概念主義や構成主義に対しては、「ダサい」「クラい」(国民主義・近代主義)の侮蔑言葉を無遠慮に投げつけるのが常態となったからである。阿久悠でもう一曲聴きたい曲があって、それは伊藤咲子の『乙女のワルツ』だったが、ネットの中にMIDIが無かったのでダウンロードして曲を購入した。島崎藤村とか白樺派の世界を彷彿とさせる美しく素晴らしい日本語が並ぶ。背骨を持っていた頃の日本人の言語風景。