勇気と底力と自己犠牲 - 民主主義の永久革命とその指導者
b0087409_12295966.jpg「私たちはどうすればいいんですか」、「それはまだ間に合いますか」。彼女が森田実に訊き、金子勝に尋ね、西部邁に問い迫った同じ質問を、私が受けたのは二年前の9月29日のことだった。場所は港区の芝公園。 「こうすればいいんだよ」。その五日後、私が返した答えがSTK (Stop The Koizumi) のラウンチだった。運動を決断したのは彼女がいたからだった。この実力者の協力を得られれば運動を成功に導けるかも知れない。アラーの神が砂漠にオアシスを出現させたように、奇跡を起こすことができるかも知れない。そう考えることができたから、勇気を出して一歩踏み出すことができた。彼女は単なるブロガーではなかったし、まして単なる「普通の主婦」でもなかった。そのとき、すでに全国に名を馳せた著名な地域住民運動の闘士であり、いちど実際に政治の奇跡を起こしていた。



b0087409_12301091.jpg周南市議会解散運動の政治ドラマは、日本の民主主義の経験の中でも特筆すべきもので、それはサイズは小さいけれども「市民革命」である。私が学生向けに政治学の教科書を書けば、きっと「民主主義」の章の中に1頁分のコラムを割いて概要を紹介するだろう。運動が成功に結果したのは指導者の資質と能力による。そのときから彼女はすでに地方政界の名士であり、政治家としての未来を嘱望された大型の人物だった。だから、参院選の候補者として擁立されたことも、地域での彼女の実績と信望を鑑みればサプライズでも何でもなかったことになる。知名度不足なんて冗談じゃない。私は去年の3月の記事で民主党の政治家像について批判して、「地域で市民の権利のために活動してきたような人間がいない」と書いているけれど、そのとき念頭にあったモデルはまさに彼女のことだった。

b0087409_12302078.jpg丸山真男や石田雄がよく言うように、デモクラシー、人民による支配とは、統治される者が統治するという矛盾と逆説を孕んだ概念であり、したがって、常に、統治される者が統治をする、被統治者が統治者になるという不断の運動の過程の中で民主主義の理念は実現される。すなわち単に民主主義の制度が社会的に達成されただけでは民主主義は実現されない。スタティックスにおいて被支配者多数は常に被支配者であって、統治する主体ではなく、統治主体たらんとして権利実現の運動を無限に続けないかぎり、支配と被支配、統治と被統治は固定化し、制度保障されたはずの人民の権利は形骸化させられる。民主主義は運動の中に本質がある。丸山真男は、安東仁兵衛が発した「先生の政治的立場は一言で言えば何ですか?」という質問に対して、「民主主義の永久革命」と答えた。永久革命としての民主主義。

b0087409_12302944.jpgそれが一般論だ。けれども、そのとき、事象を詳らかに見るならば、民主主義の運動は、被支配者一般が機械的に自然発生的にそれを遂行するわけではなく、そこに必ず指導者の契機が入る。誰かが運動の中心となって民衆を導かなければならない。デモクラシーが運動である以上、デモクラシーにはリーダーの契機が必須となる。大衆一般は基本的に運動者としてのリスクは負いたくないのであり、面倒なことは避けてラクをして遊びたいだけの存在なのであり、利己的な目的で権利や自由は大いに欲しいが、それを獲得するために身を賭けて闘争しようとする存在ではない。口を開けて権利と自由が配られるのを待っているだけの存在だ。それが満足に与えられないのでブツブツと不平不満を言っているだけの存在だ。自己を犠牲にして大衆一般の権利実現のために運動を興せる人間がデモクラシーのリーダーである。

b0087409_12303867.jpg大衆に訴え、大衆を説き、大衆を意識的な市民へ、そしてデモクラシーのアクティブに変えるのがリーダーである。彼女が民主主義の指導者として理念型的な存在であると言えるのは、私は幾つかの要件を挙げることができるけれど、例えば、勇気と底力と自己犠牲がある。三つの要件とも現代の日本人が失ったもので、失ったものを彼女は持っている。そのことが人に感動を与える。人の心を動かす。語感としてのリアリティを失い、過去の時代の言語のように眠っていた底力(そこぢから)という日本語が、彼女の人格と行動を通じて生き生きと蘇り、そして人間の可能性への信頼と敬服に繋がってゆく。それからまた、全身がやさしさと思いやりの細胞でできているようなこの人が、真剣勝負に出たときは本当に凄みがあって、それを知る者は、鞘を払った真剣が示現流の上段から打ち込まれ、身をかわせずに頭蓋を割られるような恐怖さえ覚えてしまう。

最後に自己犠牲についてだけれど、たとえば「いのちとくらし」とよく言われる。「いのちとくらしを守る政治」とかよく言われる。よく聞く。とてもいい言葉だ。政治はいのちとくらしを守るためにある。でも、最近、気がついたことがあって、それを言いたくてたまらないのだけれど、きっとこの言葉には逆の意味の真実があって、それは何かと言うと、他人のいのちとくらしを守るためには、自分のいのちとくらしを犠牲にして捧げなきゃいけないということなのだろうね。自分のいのちとくらしを犠牲にすることができる者だけが、他人のいのちとくらしを守ることができる。具体的には言わないけれど、私はそう確信する。それができる人間だけが民主主義のリーダーになれる。だから、指導者というのは、資質の問題であると同時に選択の問題でもあるよね。

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by thessalonike4 | 2007-08-14 23:30 | オー・マイ・カッシーニ
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