秋になると本が恋しくなる。5年前の 『海辺のカフカ』 のような、心を満たしてくれるいい本に出会いたくて、ネットの中の新刊情報サイトを徘徊するのだけれど、なかなかいい本に出会うことができない。3年前は 『
ダ・ヴィンチ・コード』 と出会えて、至福の時を過ごすことができた。心から満足できた。本の世界と自分の関心を交錯させ、想像力を縦横に広げながら、踏み込んで
批評を綴るのが楽しかった。あれから3年ほど経つけれど、素敵な本と出会えていない。例えば、現在のジュンク堂書店が出している総合ランキングの
ページを見ても、興味を起こす本が一冊も上位にない。ランキング下位のページを捲っても、特に手に取って読みたいと思う本が出て来ない。文芸書や人文歴史書のランキングを見ても、やはり心を引く本が見つからない。今年も出会いのないまま、空しく読書の秋を終わらなくてはいけないのだろうか。
ここから先は愚痴になるかも知れないが、敢えて辛辣に表現するなら、上位に並ぶ本はジャンクフードならぬジャンクブックであり、精神にとって栄養価が低く、有害な添加物が多い本の品々である。残念なのは、日本を代表する大型書店でこういうランキングになっている現実で、町の小さな書店の品揃えと同じような内容になっている。町の書店に置いてあるのは、税務や経理やコンピュータや冠婚葬祭や資格試験の実用本とか、そうでなければ中西輝政や櫻井よしこなどの右翼系の政治本とか、宮部みゆきの小説であり、粗製乱造の新刊新書があり、もっと他に何かないかと店の奥の方を探すと、聖教新聞社の『人間革命』の新旧全巻が荘厳に並んでいて圧倒されたりする。そういう本屋で思うことは、こういう本を並べることが地域の商圏で売上と利益を最大化させる標準的なビジネスモデルなのだろうかという疑問である。
そして、さらに、これが市場の現実であるとすれば、自分はこの社会で何と例外的で異端的な存在なのだろうかという孤独感であり、書店の主人が若干でも知識人の心を持った人間ならば、もう少し違うモデルでのチャレンジができるのではないかという感慨である。おそらく、町の本屋に何か理想を期待するのは最初から間違っている。しかし、ジュンク堂書店の売れ筋ランキングが町の本屋と同じ傾向となると、これは捨てておけない事実であり、やはり日本の中産層の崩壊と文化的意識のプロレタリア化が投影した病的な現象形態ではないかと思わざるを得ない。読みたい新刊がないので、昔の本を紹介することにする。ユン・チアンの『
ワイルド・スワン』。講談社文庫で上・中・下の3巻になって出ている。日本での初刊は93年、翻訳される前から世界的なベストセラーになっていて、日本でも出版と同時に話題と反響を呼んで爆発的に売れた。
20世紀の中国の歴史を描いた自伝的ノンフィクション作品で、世界文学に不滅の金字塔として残る大傑作。ブログでも何度か取り上げたことがあるが、まだ本を読んでない方はぜひ読んでいただきたい。私が読んだのは2001年春で、今から6年以上前になる。購入したときの文庫本の帯には「800万部を超えるベストセラー」とあるが、それから6年経って、発行部数は全世界で1000万部を超えている。まさに現代人の教養の基礎を提供する必読中の必読文献。世の中にはいい本がない。読みたいと思う本がない。それは事実だ。だけども、その反面、本当に読まなければいけない本、読めば大きな感動を得られる本を自分は読まずに放ったらかしにしている。そういう本(古典)が沢山ある。それも事実だ。新しい本との出会いも大切だけれど、これまで表面情報だけで放ったらかしにしていた本に自分から積極的に会いに行くことも大事である。
『ワイルド・スワン』は、『史記』と『三国志演義』に並び立つ中国の三大史書の一つになるに違いない。大袈裟かも知れないが、私はそのように作品を評価している。この本を読みながら、特に圧巻である文化大革命の件で、私はボロボロと涙が出て仕方がなかった。中国が文革の怒涛の時期にあるとき、日本は高度経済成長のど真ん中にあった。ユン・チアンが下放された四川省の山村で「赤脚医生」(はだしの医師)をしていたとき、私は楽しい中学生の学園生活を送っていた。その頃の日本の中学生は将来に希望を持ち、明るく幸福な日々の中にいた。実際には、医学知識や医療技術のない「赤脚医生」に何ができるわけでもなく、病気やケガで苦しむ農民の横に立ち、ただ毛沢東語録を持って介助の真似事をするだけだが、中国共産党は、そうした「赤脚医生」の革命的医療行為によって病気が治ると言い、下放した紅衛兵の若者に「はだしの医師」をやらせていた。
文化大革命とは何かという思想史の問題は、この本が全てを暴き、完全な解答を与えている。ユン・チアンは将来の中国文学の中で魯迅に並ぶ地位を与えられるだろう。この本は中国の現代史を描いたものだが、外国のことを書いた本のようには思えない。読みながら浮かび上がるのは、当時の日本と自分自身である。60年代末の頃の日本の農村地域の思想的情景が甦ってくる。毛沢東思想にかぶれた赤色教師たちが私の田舎の学校にもいた。小学校の放課後の反省会を文革の糾弾集会にして生徒を吊し上げていた左翼教師がいた。あの当時、私が住んでいたような田舎で共産党や社会党の周囲にいたアクティブというのは、レーニンよりも毛沢東の方に強い影響を受けていた。インテリであるレーニンよりも無学な毛沢東の農村共産主義に共感を抱いていた。そこには工場労働者などいなかった。だから、
日本共産党というのは、大きく三つの思想的流れの中にある。
一つはレーニン、もう一つは毛沢東、そしてさらにもう一つがグラムシ。毛沢東の影響は決して小さくはなかった。私はこの古典的名著を誰もに読んでもらいたいが、特に、高度成長期に幸福な少年少女時代を送った私と同世代の人間に読んでもらいたい。文革の思想というのは、今でも日本の左翼の中に生きている。その特徴を簡単に言えば、政治による嫉妬と劣情の組織化と正当化である。優秀な者、能力のある者、資質や環境に恵まれた者、そういう者を地位や立場から引きずり降ろし、卑しめ、貶めて弾劾する政治の論理と手法こそ文革思想の本質と言える。無能者の嫉妬感情を毛沢東は積極的に動員し、プロレタリアの美徳のように称賛した。無知であればあるだけ政治的有能者であるかのように虚構した。嫉妬する者は確実に政治的多数を結集できる。嫉妬者のクーデターは必ず成功する。そして、豊かさのない、軽薄なプロパガンダだけが支配する荒涼たる知的砂漠の地平に強引に均されるのだ。
その文革的情景は世紀を跨いだ日本のブログ世界でも生きている。2年前に出た 『マオ』 は、文庫本で読もうと思っているけれど、それほど大きな話題にはならなかった。中国はいつになったら 『ワイルド・スワン』 を解禁するだろう。