
今年2月に電通が発表した「
2006年日本の広告費」によると媒体別広告費は次のようになっている。テレビ広告費2兆161億円、新聞広告費9986億円、雑誌広告費3887億円、ネット広告費3630億円、ラジオ広告費1744億円。ネット広告費については03年が1183億円、04年が1814億円、05年が2808億円で、毎年150%程度の急激な伸び率で増えていて、伸び率の比較では他の媒体を圧倒している。広告費全体の中でのネット広告費のシェアは現在6%。だが、感覚的には、もう少しネット広告費の比重が増えてよいように思われる。まだまだ少ない。テレビと較べると確かにネットは表現力が弱く、商品の訴求力の点で効果が劣る媒体であることは事実だろう。だが、自分自身のことを考えると、最近、あまり熱心にテレビのCMを見ない。民放の番組を見ていてCMの時間になると、他のチャンネル、例えばNHKBSとか教育放送に退避して時間を潰していたりする。

思い出せば、昔はそうではなかった。一本の番組をCMも含めて最初から最後まで見ることが多かった。CMを見ないようになった理由を考え始めると複雑だが、一つは詰め込まれているCMの本数が多すぎて煩わしいということがある。例えば日本テレビの巨人戦中継を見ていると、イニングの攻守交代の時間に7本から8本のCMが詰め込まれている。CMが終わって野球中継に入ると、すでに先頭打者が打ち終わってワンアウトになっている場合がある。CMが多すぎる。こうなると苛々する感覚が先行して一本一本のCMの印象が残らない。昔はCMはせいぜい3本か4本だった。人気番組についてはどの企業がスポンサーについているかも頭に入っていた。今は何もわからない。TBSの『世界ふしぎ発見』と日立製作所、テレビ朝日の『世界の車窓から』と富士通くらいしか出て来ない。テレビ東京の『アド街ック天国』は日産だったかどうか。番組は全然見ないけれど『水戸黄門』と松下電器は知っている。

昔、十年前、『
クラウンのコマーシャルが素晴らしい』という論文を書いたことがある。あの頃は日本の企業がまだ元気で、日本の中産層がまだ分厚い所得と購買意欲を持っていた。世界一レベルの高い商品の品質を見分ける目を持っていた。印象に残るCMがないのは、私自身の生活意識の変化もあるが、日本の企業、特に製造業がガタガタになって、付加価値のある、自信のある日本製品を作れなくなっていることが背景にあるように感じられてならない。あの頃のような素晴らしい日本製品の作り手と売り手が消えて、市場で売れるものは何でも安くなくてはいけなくなり、米国のような市場構造と製品性格になった。車を例にとっても、確かに日本の自動車産業は名実ともに世界一になったが、国内で販売している車で魅力的なものがない。「お金があればこれを買いたい」と欲望する車がない。日本車のデザインは年を追って悪くなった。日本車らしいセンスとスタイルを失い、カッコ悪いグローバルスタンダード車になって行った。

それを先導したのはゴーンの日産だったと思うが、そして、せめてトヨタにはいい車を出して欲しかったが、国内でいい車を買える購買層が無くなったから、いい車を出しても売れない。無個性のワンボックス車しか売れない。車を見ていると日本経済がよくわかる。5年前に出された 『海辺のカフカ』 には、マツダの緑のユーノス・ロードスターが出てくる。いかにも村上作品の登場人物らしい、センス抜群のキャラクターの大島が、この車で高知自動車道を飛ばす場面がある。昔はロードスターがよく高速道路を走っていた。トヨタのソアラやスープラもよく見た。私は嫌いだったが、スカイラインとシルビアもよく走っていた。車に個性があった。単に道を車が走っているのではなく、一台一台個性的な自動車製品が個性を主張しながら走っていた。高速道路を走っていて、マークⅡが後ろにつくとバックミラー越しに安心した。マークⅡは、マークⅡとその前後を固めるカローラとクラウンは、まさに日本の黄金の中産階級のシンボルだった。あの頃に戻りたい。あの頃に戻りたい。心からの叫びとしてそう思う。

広告費のネットへのシフトとニュースポータルの市場競争について考察を深めようとしたが、話題がすっかり車の方に逸れてしまった。このまま車の話で埋める。最初に買って乗った車は中古のクラウンだったが、そのとき、最後まで迷ったキャンディデイトが他に2台あって、黒のソアラと紺のウィンダムだった。その当時、どれも中古で180万円くらいで売られていて、中古車情報誌の「カーセンサー」や「goo」をめくりながらどれにしようか悩んでいたのを思い出す。黄色のロードスターにも食指が動いた。中古車は当り外れがあり、新車を買うよりリスクは高いけれど、客観的に一人の購買者としてそのときの自分を見たとき、黄色のロードスターと黒のソアラと紺のウィンダムで悩んでいた人間というのは、世界の中で何と恵まれた贅沢な存在だったのだろうと思わざるを得ない。どれも素晴らしい日本製品で、中古車でも日本車であり、例えば外国の30代の男の視線からすれば、それを普通の所得の人間が普通の選択の自由で入手でき、売り買いして乗り換えられるというのは、羨ましいほど幸福な経済環境だったのに違いない。
必ず、日本に中産階級を復活させる。そこに自分も戻る。夢を取り戻す。日本の中産階級の死は日本の製造業の死でもある。竹中平蔵と米資が日本の中産階級を殺したのは、日本の製造業を殺すためだった。新自由主義を倒すということは、日本の中産階級と製造業を復活させるということと同義である。