
『
資本論』の中で最も難解な議論の一つが第1巻第1章第3節の価値形態論で、学生時代に何度も読み直しながら悪戦苦闘した記憶がある。価値形態とは何か、価値形態が貨幣形態として完成されるということはどういうことか。商品に使用価値と価値の二つがあるという基本の話はよく分かるが、価値形態論で展開されている論理と意味が掴めず、結局、第3節と第4節は中途半端な理解で読み飛ばすしかなかった。今回、ブログの情報価値について考えながら、ふと、この学生時代に呻吟した価値形態というマルクス経済学の概念が思い浮かび、そこから着想が広がって行った。ブログの記事が「労働の生産物」と言えるのかどうか、現在は明確ではない。が、ブログの記事が「コンテンツ」であることは明白で、新聞記事やテレビ番組と同列の社会的存在である。「同列の社会的存在」というのは、まさしく使用価値(効用・効能)の視点において同じ存在という意味である。

ブログの記事は使用価値を持っている。コンテンツとしての使用価値がある。それでは価値(交換価値)はあるのか。問題はそこだ。仮に価値を持っているとすれば、その価値はどのように証明されるのか。価値があるという客観的事実、そして価値量はどうやって表現されるのか。すなわちブログ情報の価値形態は何なのか。弁証法の論理で全てを説明するマルクスは、必ず本質と現象形態という方法で概念を解き明かし、聞く者を理解へと導いて行く。ブログに価値があるという本質は、どのような現象形態(価値形態)でそれを実現するのか。そのように考えると価値形態という言葉がわかりやすく、そしてブログの情報価値を考察する上で便利な経済学用語であることがわかる。実は、ブログの価値をあらわす価値形態として貨幣形態以外のものがある。そのことに気がついた。それはカウンターだ。アクセスカウンターの数値がブログ情報の価値形態である。恐らくそう言える。

価値は量で表現され、交換可能な標準的なものである。そして、それぞれのブログ情報の使用価値は質的に異なり、読者の趣味や関心によって評価は異なる。だが、質的に異なるブログ情報を一般的標準的に比較して価値を測る物差しがある。それが価値形態としてのカウンターであり、カウンターの数値が大きいブログほど価値が大きいという認識が一般的社会的に成立している。テレビ番組の視聴率、映画の観客動員数、本の発行部数。カウンターはブログの価値形態である。だからブロガーはブログのカウンター数値に執着し、自己のブログの価値証明をするべく必死でアクセス数を伸ばそうと努力する。半年前に書いた
記事(ステイタスレポート)の中で、私は、「(ブロガーは)カウンタの数字がまるで保有株式の株価のように思えてくる」と書いたが、アクセス数の上昇に血眼になるブロガーの実感はこういうものだろう。現時点でブログの価値をブロガーに教える一般的価値形態はカウンターの数値である。

ここまで考えて、何かさらに思考のヒントはないかと思い、今度は、柄谷行人の『
NAM』が思い浮かんだ。2000年に出版されたこの本は、当時は本屋では結構売れていた。新自由主義の暴風雨が吹き荒れ、猛烈な勢いで大量の「負け組」が創出されている時期であり、白い本を「貴族のお遊びだな」と横目で一瞥したのを覚えている。「貴族のお遊びだな」という印象は今でも変わらないが、地域通貨の可能性に期待したNAMが一つの経済運動の提唱であったことは間違いない。それと、読んで新鮮だったのは、そこに資本論の経済学理論が展開されている点だった。資本論の議論を持ち込んだ本で売れる本を出せるのは柄谷行人しかいない。資本論の価値論はやはり私の関心を誘う。街を歩いていて、そこにブーツ姿の滝川クリステルがいれば、男なら誰でも数秒間は視線を集中させてしまうと思うが、資本論の価値論にもそういう妖艶な魅力があり、出会ってから何十年経っても、その妖艶で神秘的な魅力への惑溺を払拭することができない。

現在、テレビ広告費2兆161億円、ネット広告費3630億円。これをテレビ広告費1兆161億円、ネット広告費1兆3630億円にシフトしなくてはいけない。現在の一般的な生活者の価値意識において、テレビがネットの5倍以上の価値があるなどということはない。特に広告費が支えている民放のコンテンツとネットのコンテンツだけを比較すれば、誰が考えてもネットの価値量全体の方が大きいはずだ。すなわち、貨幣形態で実現されている価値においては、テレビとネットは倒錯しているのであり、両者の正しい価値(価値量)を反映していない。不等価交換と収奪の構造がある。媒体価値をあらわす貨幣形態(広告費)はこれを正しい姿に直さなければならないのであり、正しい姿に戻すためには、あるべき姿を実現しようとする人間の運動(経済運動)が必要となる。これはきっと市場を作る運動だ。市場は決して自然に生成されるものではない。何もせずに待っていれば自動的に需要と供給を繋げるスミス的市場が現出するわけではない。市民が放っておけば市場は資本の側が作る。
その市場は、市民が資本に収奪される不等価交換の市場であり、不等価交換が合理化され合法化される新自由主義の市場である。テレビ情報の価格(貨幣形態)は不当に高すぎる。ブログ情報の価格(貨幣形態)は不当に安すぎる。テレビから1兆円をもぎ取り、その1兆円をブログに流す。簡単な話をすれば、マクロ的にはそういう経済目標になる。