秋が深まり、フェリス女学院大学の三田村先生の源氏物語の講義を聴きたい気分になった。もうかれこれ十年以上も前になるが、NHK教育の深夜番組『古典への招待』で三田村先生が源氏を講義しているのを見て、すっかりその面白さに引き込まれた記憶がある。眠い目をこすりながら集中して見ていた。記憶では、その後も二度ほど源氏物語を講義し、一度だけ枕草子をやったように覚えている。三田村先生の源氏物語は絶品だった。ETVの番組で、これまで源氏やその他の古典について講義を聴いたことがあるが、中身は基本的に高校の授業で習ったものと変わりなかった。つまり原文解釈であり、古文の言葉の一つ一つを追いかけて全体の意味を明らかにし、余った時間で作者や作品や関係する歴史上の人物のエピソードを加えて、講義時間を纏めるプレーンな形式だった。
三田村先生の講義は、そうした古文解釈の一般通念とは根本的に異なるレベルの高いもので、まさに大学の人文科学の講義と呼ぶに相応しい内実を持っていた。原文解釈も必要十分だったが、それだけで時間を埋めるのではなく、それ以上に仏教的世界観の作品への影響だとか、平安期の民俗研究の最新成果の紹介だとか、まさに大学の現役の研究者による野心的で豊穣な研究報告が次々に繰り出され、聴く者を高度な学問の世界に導いて感動させるものだった。三田村先生の講義を聴く以前、国文学など学問にあらず、茶道や華道と同じ、若い女の子の花嫁修行の類だろうとバカにしていた私は、三田村先生の講義を聴いた後、国文学に対して態度を一変し、深い尊敬の念を持つようになった。それは同時に、三田村先生をここまでハイレベルな研究に導く源氏物語そのものへの崇敬にも繋がった。
二度目の講義は「宇治十帖」だったと思うが、ひたすら深遠で、講義そのものが妖しく幻想的だった印象がある。薫と匂の宮と浮舟の三人が織りなす「宇治十帖」の物語は、人間の宿業と破滅が描かれる世界であり、源氏物語は初期の華やかさを失って、暗い宇治川の奔流に巻き込まれ、深い底に沈み落ちて行く。「宇治十帖」は高校3年のときに授業を受けたが、もう間もなく受験が始まる時期であり、受験勉強で疲れた頭を休めるように、朦朧とした意識の中で教師の話を聞いていた。白い靄がたちこめて視界不良になり、それがさらに暗闇に変わる「宇治十帖」の空間は、登場人物の言葉や情景が判然とせず、それらが全て浮遊する観念の濃霧に包まれ、思考より感覚で手探りしてドラマを辿らざるを得ない。香西かおりの歌に 『
宇治川哀歌』 というヒット曲があるが、あれは「宇治十帖」にインスパイアされた創作ではあるまいか。
源氏物語は日本では高校の2年か3年で学習する。あれは、一つの性教育の課程が文科省によって意識されていたように今では思われる。中学校では、確か2年生くらいのときに、男子は精巣が発達し、女子は卵巣が発達して月経が云々という話を、身体の図解入りで教師から説明を受けた。高校に入ると、正規の性教育の授業は無かった。源氏物語は、きっとその代替の教育課程の役割を果たしていたのではないか。高校生が源氏物語を読んで理解するということは、経験によって知ることのない大人の男女の愛の世界に想像を廻らせるということであり、知識によって具体的なイメージを膨らませるということだった。例えばあの光源氏を中心とする刺激的な人間相関図の了解を含めて、生徒たちは戸惑ったり、淫猥な妄想を抱いたりしながら、源氏物語の教育課程に付き合っていて、理解のためには精神的に大人になる必要があった。
そう考えると、日本の中等教育の設計はよくできていて、即物的な教材ではなく、教科の中に上手に入れ込んだ形で、抽象的婉曲的に子どもたちに性教育を施していた。その中心的な教育素材が古典の源氏物語で、性愛についての知識と想像力を持てば持つほど、原文がよく理解できる仕組みになっていた。それと関連して、少し話は違うが、高校1年のときの世界史で習った「宦官」の話もショッキングな性教育体験の一つだった。世界史の教師は淡々と古代中国史で宦官を説明し、司馬遷の宮刑の話を教えてくれた。男女共学の教室は静まり返り、生徒たちは息をのんで教師の話に聴き入った。事前に宦官の知識を持っている子は学級にはいなかった。男の子たちは青ざめ、身体の一部に違和感を感じる者もいた。女子生徒がどう聞いていたかは皆目わからない。少なからず精神的衝撃を伴う授業であり、中学校と高校の授業の違いを感じさせられた時間だった。
三田村先生のあの滔々と情熱が迸る源氏の講義を聴いていると、紫式部が三田村先生に姿を変えて甦って、自分の言葉を現代人にメッセージしているような響きを感じる。三田村先生自身が紫式部を自分に乗り移らせて、紫式部に代わって作品の神髄と真実を代弁しているように聞こえる。現代の人文科学の方法の上に立つ研究者の三田村雅子と古代の物語作者である紫式部の二人が、同じ人間が二つの人格に交互にスイッチバックして立ち現れているような、そういう錯覚をおぼえてしまう。明らかに三田村雅子は紫式部と源氏物語を愛している。紫式部に代わって源氏を解説したという点では、与謝野晶子も同じだろうし、瀬戸内寂聴も同じなのだろう。だが、三田村雅子の場合は科学と研究の立場に立っていて、紫式部の世界に無媒介に接合するのではなく、他の再現文学者たちと比べて対自的な関係に立っている。だからこそ、その分、迫力と説得力が強烈なのだ。
三田村先生が次に源氏を講義してくれるのはいつだろう。