本屋の店頭に辺見庸の新刊 『
たんば色の覚書』 が並べ置かれていて、手にとって読んでいると、その中のエッセイに面白い内容が書かれていた。資本主義の最終段階においては、資本は人間の労働力ではなくて意識を収奪の対象にする。誰かの詩人の議論の紹介だったが、いつものように辺見庸の省察の鋭さがあり、そして辺見庸の勉強熱心に感心させられる。資本が人間の意識を収奪する段階。その説明に用いられたわれわれの現実は次のようなものだった。すなわち、自民党の政権公約コピーも、民主党の政権公約コピーも、どちらも同じ広告代理店が商売で作ったものであり、党首や幹部は自分の政治理念など言葉として露ほども持っておらず、広告代理店が党本部に商品納入したコピーを政治家の言葉として軽く吐く。民主党を支持する国民は、広告代理店が作った商品の自民党批判コピートークを頭で受け入れ、民主党に一票入れる。
人間の意識が資本に収奪されるということは、その人間の感情とか信念とか希望とか社会批判とかが、資本が商品として作り出したもので(置き換えられて内面化して)具体形象されているということであり、簡単に言えばロボトミー化されているということである。そして、その人間の人生が、人生とは感情と思考と表現の蓄積であり記憶だが、それらが全て資本が作り出した商品の集積として結果され、その人間の人生や精神は、資本に内部を食い荒らされた残骸としてしか残らないのである。昨年の「
政策マグナカルタ」とか、今年の参院選前に作った「
民主党の政権政策」などは、多分に代理店作の商品コピーの臭いがある。新自由主義政党となった現在の自民党は、代理店コピーまみれの、資本の欲望が政党になっただけの集団だが、自民党がそうなる前から、松下政経塾集団を中心として民主党にはその臭気が濃厚だった。広告代理店のコピーに支えられていた。
民主党が広告代理店に深く依存しなければいけないのには理由がある。それは、党内に全く理念の異なる政治集団を抱えていながら、内部に矛盾や対立がないように外に向かって表現し、一つの理念と目標の下に結集した同志集団として自己を演出しなければならないからである。旧社会党出身の人間は、少なからず福祉国家型の弱者救済の社会政策を志向するだろうし、平和憲法の護持にも神経質な態度を持つ。旧日本新党や旧自由党の人間は、そもそもの出発点が新保守主義で新自由主義の発想であり、政治目標として憲法改正と集団的自衛権の実現がある。政党の定義を「共通の政治理念を持ち、それを実現するために結集した同志集団」とするならば、民主党の実態は政党の定義から著しく乖離したところにあり、本義と実態のギャップが甚だしい。そうした本質的齟齬を言葉の感覚表現で埋めるために、外に対して取り繕うために、広告代理店のコピーマジックが必要だった。
そういう問題を昨年の夏から秋にかけてよく話した。翌年に参院選挙に立候補する予定候補者と毎日のように議論していて、その結果がブログの記事になっている。二人の間で焦点になったのは、結局のところ、政治におけるオポチュ二ズムとファンダメンタリズムの問題だった。英語で表現すると両方ともネガティブなニュアンスになる。日本語に直して現実主義と理念主義の葛藤の問題とすると、多少ともポジティブな意味に化ける。「だって、いくらいいことを言ったって、現実に政権を取らなきゃ何も変わらないでしょう」。候補者はリアリストで、実際に具体的な理念と目標を実現させるために、リアリズムを駆使して政治の果実を獲得してきた人だった。私はドリーマー。「第3極なんて誰がやるの」。「いや、たとえ政権を取れなくてもね、格差拡大政策や米国追従政策に反対の勢力が議席を増やして、国会で政府を追い詰めれば、具体的に政府の政策を変えて行くことはできると思うよ。昔はそうだった」。
小沢一郎の問題は、政治を単なる権力争奪のゲームだと考えているところであり、命を賭けて実現しようとする
理念がないことである。小沢一郎には政治理念がない。昔は「普通の国」を理念として掲げていて、それは具体的には9条を改正して戦争ができる国にすることだったが、最近はそれを言わなくなり、「政権交代」だけが看板となり、総選挙で自民党に勝利して過半数を取ると言い続けていた。が、小沢一郎にとっては「政権交代」も唯一絶対の目標ではないのだ。今度の小沢一郎の大連立協議の行動は、明らかに国民に嘘を言って有権者を騙していたことになる。裏切られた国民は失望し、小沢一郎と民主党は大きく信用を失墜するだろう。あれだけ
マニフェストを強調し、選挙での公約を重視してきた小沢一郎が、事前に誰とも何の相談も了解もなく、単独で福田政権との連立協議に動いたことの倫理的責任はきわめて重い。どのように党と支持者と国民に弁解するのか。党内の動揺は計り知れないほど大きい。
小沢一郎は民主党が連立に合意しない場合は代表辞任もあると漏らしている。今後、党内は大きく混乱し、議員は落ち着いて国会対策や法案審議もできなくなるだろう。小沢一郎が党を割って外に出た場合、付き従う議員が少なからずいる。それが参院でどの程度の数になるか。その数が与党に足し合わされて過半数に届けば、福田政権は小泉政権と同じく磐石になり、先の参院選は全く意味のないものになってしまう。が、よく思い返せば、小沢一郎はそういう動きを繰り返してきた。壊し屋と言われ、政界再編仕掛人と言われ、新党を作っては壊しを繰り返してきた。新生党、新進党、自由党。その度に自民党が息を吹き返し、生き延びる政界再編と政権合意があり、国民が選挙で意思した政治構図を小沢一郎の合従連衡が崩してきた。小沢一郎にそういう没理念の政治パフォーマンスを許し、その舞台を与えたのは、言うまでもなく15年前の「
政治改革」である。この大連立協議の茶番劇を見て、山口二郎は何と言うのか。
小沢一郎を持ち上げた
後房雄は何と言うのか。山口二郎に言いたい。50年後の日本で、私も君も死んで生きてないが、例えば高等学校の「現代社会」の試験とか、地方の町役場の公務員の試験とかで、「90年代初の政治改革の動きの中で中心的な役割を担った政治学者の名前を1人挙げよ」の問題が出題されたなら、「山口二郎」が10点満点の正解である。「舛添要一」や「福岡政行」では3点、「内田健三」では5点だろう。政治改革に便乗して左側から小選挙区制導入に加担した事実は、日本の政治学者として万死に値する過誤ではなかったのか。
【CM】
宮崎元伸のGoogle検索順位がいつの間にか第1位へ。
これぞ 『世に倦む日日』 の....
そのせいか、山田洋行様(yamada.co.jp)から連日5名ほどのアクセスを頂戴の光栄。(笑)