数日前に、それでは私たちはどのような投票行動を起こせばよいのかという
質問があった。その質問に答えたい。まず、今は選挙の一週間前でも二週間前の時点でもないということである。その前提が大事だ。慎重居士の福田首相は議席を減らす可能性のある博打は簡単には打って来ない。解散するときは、確実に自民党の勝利を確保できて、さらに参院の与野党逆転を解消できる戦略的展望を掴んだときに初めて賽子を振る。福田首相は小泉純一郎とは違う。タイマンを張る侠客政治ではなく、話し合いで巧妙に着実に戦略の歩を進める。新テロ特措法は、福田首相は半ば諦めている気配があり、成立させるときは必ず民主党と協議修正した上で共同提出に持ち込もうとするだろう。少なくとも、この法案と心中して、下野のリスクのある解散のギャンブルを選ぶとは思えない。福田首相の新テロ特措法は小泉前首相の郵政民営化と同じではない。
私たちには政治を準備する時間の猶予がある。時間があるのに、今この時点で、どう考えても民主党に投票するしかないとか、裏切った民主党が憎いから共産党か社民党に入れるべきだなどと、切羽詰った状況と局面での投票行動を決める必要はないのである。自らの思考を追い込んで可能性を貧しく限定してはいけない。もっと自由に、もっと豊かに、どこまでも想像力を駆使して、私たちの政治的可能性を膨らませればよいのである。
ジョンレノンは何と言ったか。イマジネーションせよ。ジョンに従おう。現実は与えられるだけのものではない。一方で、政府や権力や政党が上からわれわれ市民に与えてくる固定的な選択と生き方の枠がある。お前たちにはこれしかないのだと示される選択肢がある。他方で、自分たちはこうしたいのだ、こう生きたいのだという夢や願いがわれわれにはある。現実とは、その二つがせめぎあって生起生成されるものだ。
政府や権力や政党が市民に押しつけてくる所与だけが現実ではない。それだけを「現実」として認めて従う「現実主義」は、真の意味のリアリズムではなく、単なる既成事実への屈服である。現実とは市民が下から主体的に切り拓いて作って行くものだ。そして憲法は何と言っているか。この国の主権者は誰だと言っているか。この国の政治は誰がやれと言っているのか。憲法に従おう。政府や政権や政党や報道機関の提案や誘導に従うのではなく、そうではなく、憲法にこそ従って、われわれ自身でわれわれの理想の政治をデザインするのだ。
設計図を描くのだ。設計図面をこの国の現実にするのだ。自分たちが心から支持できる政党がないのなら、それを現実に作ればよいではないか。一度はそのチャレンジをすればよいではないか。新自由主義を否定する経済政策、対米盲従を否定する外交政策、それを掲げる革新新党の結成と結集を考えればよいではないか。
イマジネーションして、デザインして、チャレンジして、それでも駄目だったのなら、諦めて既成政党が上から提案する政治を選択すればいい。けれども、現状に不満であるのなら、既成政党の体質と政策と路線に満足できないのなら、主権者として自ら立ち上がることを考えるべきである。憲法が国民に与えている参政権は、選挙で投票する選挙権だけではなく、選挙に立候補する被選挙権も含まれている。被選挙権を行使するパースペクティブを臆することなく考えればいい。ブログを始め、
STKを始めてから、被選挙権を堂々と行使した優秀な市民を二人見た。最初に見たときから二人は優秀で、才能と資質において目を見張る政治のエリートだった。たしかに、国民主権はフィクションである。民主主義はフィクションである。支配される者が支配をする原理矛盾を孕んでいる。だが、人類史はこの虚構を現実にする運動の総体でもあった。人間は理想を実現するために生きている。
国民主権が制度として一般化されるまで、死屍累々と犠牲になった名も無き挑戦者たちの歴史の上にわれわれの生活と権利がある。デモクラシーの虚構を現実にする不断の運動(
永久革命)の延長線上に未来の人類の権利が懸かっている。運動を途絶えさせれば、民主主義は生命力を失ってそこで死ぬ。世襲議員と世襲官僚と世襲経営者が税金を貪って回す「民主主義国家」で終わる。生きる権利は次々と剥奪され、希望もなく学問もなく貧しいまま、重税を払い続けるだけで一生を終えて死ぬ国民が多数の「民主主義国家」となる。そして彼らは、日本をそういう国にするために「政治改革」で騙して二大政党制にしたのであり、小選挙区制を導入したのだ。可能性を奪うため、可能性を描かせないため、戦後民主主義が齎した制度と資産を根こそぎ破壊するため、二大政党制に変えたのである。国民に参政させないため、参政を阻止するため、参政権を形骸化するための擬似二大政党制なのだ。
韓国は外的形態は二大政党だが、ウリ党は盧武鉉が大統領になった後で結成再編された新党で、左派の政策を実現するための革新与党である。日本の二大政党制とは性格も背景も違う。単純にパターン反復するスタティックなイメージの二大政党制ではない。もっとダイナミックで、デモクラティックな政治の姿がある。デモス(市民)がフィクションを運動で実質化している。国民が参政権をよく行使している。そう見える。中国は一党独裁だが、独裁する一党の中に様々な思想性が混入し包含されていて、現在の主流の政策思想は鄧小平路線の新自由主義となっている。そして、南米や欧州などの外からの一般市民の視線から見たとき、この十五年、国家経営のパフォーマンスで成功しているのは、一党独裁共産主義国家の中国であり、失敗しているのは二大政党制民主主義国家の日本である。この十五年間、中国政府は国民に多くの権利と福利を与え、日本政府は国民から多くの権利と福利を奪った。
アジアの国のデモクラシーは、権利実現の内実は、欧米の国の制度を単純に普遍化できない多様性の中身がある。日本にとっては、戦後民主主義が育んだ中選挙区制こそが、国民の権利にとっては最も具合がよかった。昨日の記事を読み直しながら思ったことは、靖国参拝と対米盲従と海外派兵と新自由主義の政治を推進する側には、たとえ幼稚で未熟で無能な安倍晋三が躓いて転んでも、大衆の支持を調達できるシンボルとして、中曽根康弘もいるし、石原慎太郎もいるし、竹中平蔵もいる。それに対抗する側は、福祉国家と平和憲法の政治を推進する側は、なぜ一人のシンボルも立てられないのだろう。福祉国家でも平和憲法でもない偽りのシンボルである小沢一郎しか立てられないのだろう。安倍晋三と同じほど倨傲で退嬰的な人格がシンボルに担がれるのだろう。なぜ福祉国家と平和憲法を求める側は、それにジャストフィットする有効なシンボルを探さないのか、見つけないのか。小沢一郎では借り物にしかすぎないのに。
以上、回答になったかどうかは自信がないが、「どのような投票行動を起こせばいいか」という質問に対して、投票行動の前に、もっと根源的な、ラディカルなところから政治行動することを考えましょうというのが私の提案である。おそらく丸山真男が生きていれば、同じ回答を返したのではないかと私は思う。