NHKドラマ『
海峡』がとてもよかった。全三回ではもったいない。せっかく岡崎栄が演出して日韓現代史を描いたドラマを作るのだから、『大地の子』に準ずる規模の、全十回ほどの大型の企画と構成にして欲しかった。物語のテーマは十分にそれだけの内容を制作できる深さと広がりを持っている。うがった見方だが、岡崎栄が構想するドラマのスケールがとても大きくて、その構想力にジェームス三木の脚本やNHKの制作方針が追いつかなかったのかも知れない。岡崎栄は本当にいい作品を作る。見る者を感動させてくれる。このドラマはジェームス三木と岡崎栄の合作であり、ドラマの中に二人の創作の要素がある。第一話の釜山港の別れのシーン、第二話の佐世保港の別れのシーン、バックにさだまさしの主題歌が流れて感動を盛り上げる名場面は、まさに岡崎栄の手法であり、カメラの撮り方やセットの設え方が『
大地の子』を彷彿させる。
だが、このドラマの感動は岡崎栄の演出だけで作られているのではない。ジェームス三木の脚本がとてもいいのである。有り体に言えば、このドラマが成功しているのは、ストレートなメロドラマ(純愛物語)の脚本部分にある。第一話と第二話で、二回、真島秀和の朴俊仁が長谷川京子の吉江朋子に求愛の言葉を放つ場面がある。「あなたを一生守り抜きます」「あなたを必ず幸せにします」。あの場面がとても鮮烈なのだ。真島秀和の演技の素晴らしさもあるけれど、この純粋な若い男が思いをこめて言う求愛の表現が素晴らしいのである。見ていて、『冬のソナタ』を思い出した。『冬のソナタ』の最終回から二回目くらいの回で、難病で失明が確実と診断されたぺヨンジュンが、チェジウに別れを切り出す場面がある。「もうこれで会うのはやめよう」。夜、車で家まで送り届けたところで、万感の思いで別れを告げる場面がある。あの場面を思い出した。
ペヨンジュンの迫真の演技が圧巻だったが、どれほど強く深く男が女を愛しているかを説得されて恍惚とさせられた場面であり、あのように愛を純粋に描いて演じるドラマを久しく見ていなかった日本の視聴者は不意を衝かれて驚かされた。確か、それを見たのと同じ頃だったが、TBSの『サンデーモーニング』で橋谷能理子が『冬のソナタ』とペヨンジュンを激賞して、「日本の男がだめだから韓国ドラマの男がよく見えるのですよ」というようなことを言っていた。「日本の男」も「日本のドラマ」もどちらも駄目になっていて、純粋な愛の言葉を真っ直ぐ相手に伝える感動的な場面が日本のドラマの中に出て来ない。そういう真剣な愛の言葉が発せられる場面のリアリティが日本人の生活から消えてなくなっていて、それは重すぎて、軽っぽい薄い言葉で男女が出会って別れるキムタク主演の小学生の演劇会のようなドラマの方がリアリティがあるように感じられる時代になっていたのである。
が、それもこれも、リアリティも感動も、朴俊仁役の真島秀和がいればこその成功なのだ。真島秀和の演技が本当に絶品である。『大地の子』で上川隆也の陸一心を見たときと同じ新鮮な感動がある。第三話の死の直前を演じた老人役の演技も見事だった。
第三話、観客は朴俊仁が最後にどのように出てくるか固唾をのんで見守るのだが、その期待と予想をはるかに超えて、真島秀和が息をのむ老け役の演技で観客を驚かせ納得させる。「この海の上に引かれた国境線のために、私は何度も犯罪者にさせられました。それはこの半島でも同じです。国境線のために分断されて多くの離散家族が辛い目に遭っています」。真島秀和の朴俊仁は、昭和21年夏に佐世保から国外強制退去になった後、半年間米軍の手で刑務所に入れられ、保釈後さらに日本へ密航を試みて捕えられ、スパイ容疑で二年間収容所に入れられていた。その後、
朝鮮戦争が勃発、韓国軍の兵士として徴兵され最前線に送られていた。
「お願いですから、もう夢の中に出て来ないで下さい」。この長谷川京子の朋子の言葉にドラマを見ている者は救われる。最後に愛を確認できて救われる。「そうですか。わかりました」。観客と同時に真島秀和の俊仁も救われる。ジェームス三木の脚本の妙がある。第三話は大人の愛の物語になる。大人の愛の物語が素敵に完結する。真島秀和の朴俊仁が、「愛だけでは問題の解決にならないのではないかと思うようになりました」という台詞がある。聞き流してしまいそうになるが、ここにもこのドラマのカギがある。ジェームス三木のメッセージがあるような気がする。純粋な愛だけでは幸せにはなれない。一緒に不幸になろうという結婚ではうまく行かない。二人が幸せになるためには、周囲が二人を祝福するものでなくてはならない。俊仁と朋子の場合には、決定的な問題として俊仁の
母親の反対があった。母親が日本からの朋子の手紙を俊仁に見せなかったのは、母親がわが子俊仁と朋子の二人の幸福を心から願ったからである。
だが、一点だけ腑に落ちない点と言うか、不自然に思うところがある。解釈と想像を伸ばさないと届かない理解がこの物語にはある。朴俊仁はどうして韓国から朋子に手紙を出さなかったのだろうか。半年の囚獄を解かれて密航を企てる前、さらに二年の収容所生活から釈放されて兵役に赴く前、少なくとも二度は手紙を書く機会があった。日本の朋子から慶州の俊仁の実家には通信が届くのだから、釜山の俊仁が手紙を出せば、確実に京都の伊藤(
豊原功補)の家には届いていただろう。どうして書かなかったのだろう。そしてそのことと関連するけれど、朋子が大阪に就職して引っ越すとき、伊藤が朋子に「もう指輪は外した方がええよ」と助言する件がある。俊仁が強制送還されて僅か一年後であり、視聴者であるわれわれは伊藤の薄情に対して怪訝な気分になる。が、それを伏線としてジェームス三木の脚本全体を考えると、その後に伊藤から朋子に「俊仁が再婚して釜山で会社を経営しているらしい」という情報を電話で伝える件に納得がゆく。
つまり、伊藤は朴俊仁の純愛(必ず帰って来るという朋子への約束)に対して、同じ半島人として半ば疑いの目を持って見ていたのだろう。それは俊仁の人格への不信という問題ではなく、理想と現実のギャップへの洞察と言うか、俊仁のような理想主義ではいずれ挫折して、最終的に朋子を幸せにすることはできないだろうと見ていたフシがあり、そして、一般に強制送還された密航者の囚役期間が半年であるのに、一年経っても何の消息も送って来ない俊仁に対して、「何かあったな」と考えたに違いない。たとえ強制送還されて獄の中に入っても、在日社会のネットワークに情報を報せ届ける方法はあることを伊藤は知っていたのだ。その伊藤のリアリズムの感覚は、俊仁の母親の感覚と同一である。俊仁が朋子を裏切ったとは言わないが、このジェームス三木の原作に実話があったとすれば、実話の実相はそういう問題を孕んでいたのではないか。たとえ朋子から手紙が来なくても、俊仁は朋子に手紙を書いて出すべきだった。「愛だけでは問題を解決できない」。そう素直に告げるべきだった。
最後に長谷川京子だけれど、清楚で美しい感じを出してとてもよかった。長谷川京子はどんな場面でも美しい絵を作れる。あの第二話の、割烹着とモンペ姿の下女同然のやつれた格好でも、長谷川京子は女優らしく神々しく輝いて光っていた。きれいだ。その存在感が素晴らしい。主演の演技力はなくても、美しく魅惑的な存在感でドラマの中心にあって視聴者を飽きさせない。演技は真島秀和などの脇役の人たちがやってくれる。50代を演じた第三話の釜山での老け役も美しく見事だった。昭和20年から昭和50年まで、ブラウスから割烹着から和服からウールのスーツまで、スタッフは長谷川京子に時代にあわせていろいろな衣装を着させたが、美しくスタイルのいい長谷川京子はどれもよく似合っていた。だが、いちばんよく似合っていたのは、最高に美しいと思ったのは、あの第一話に俊仁と三浪津へ一緒に行ったときに着た白いチマショゴリの衣装である。第一話の私の感想を第二話で朴俊仁が台詞にしていた。
「朋子さんは本当にチョゴリがよく似合うから」。釜山と三浪津を日帰りで往復したのが、考えてみれば二人の最初のデートで、そのとき
カササギの話も出る。