
今年の流行語大賞のニュースがあった。毎年、この時期になると、自由国民社の「
流行語大賞」が発表され、恰も国民的な恒例行事のような扱いでテレビの報道番組で紹介される。昨夜もNHKの7時のニュースで時間をかけて放送された。このイベントを仕掛けているのは電通だという噂があり、私もそう思いながら見ているが、今年の選考にも納得がいかないし、この興行と演出に対して有害で不快な印象を拭えない。これは有毒な大衆操作のコンテンツであると同時に、悪質な歴史捏造のプロパガンダであると直観する。これは一つの政治である。日本の大衆がこの一年を回顧し記憶するときの擬似シンボルが公式設定されている。それは国民的で中立的な性格づけが巧妙な演出によって偽装されている。だが、本当に国民的でも中立的なものでもなく、狙いは国民を騙し欺くところにあり、真に意味のあるものではなく意味のないものを国民の記憶として刻印するための仕掛である。07年を東国原英夫の言葉で象徴的に記憶するのは間違っている。

あんなものは今年の流行語でも何でもなかった。東国原英夫の
言葉を流行語として認識した者はいないはずだし、流行語として会話の中で使った人間はいないはずである。今年の流行語として選ばれるべき最も適当な言葉は「KY」である。この言葉こそ流行語の語義に該当する流行語であり、07年の一年を回顧回想するときに象徴的な言語として意識に浮かび上がらせなければならない一語である。日本の07年の言語のシンボルであり、07年はこの言葉とともに歴史に記憶されなければならない。この「流行語大賞」の行事は、常に流行語として不当で不適切なものを流行語として選んでいる。流行語と言う以上、その言葉が一般に広く人口に膾炙されることは無論のこと、それ以上に大事なのは、その言葉がそもそもの出自や原義である固有名詞や固有事象から離れて、一般用語として意味を持って社会的に流通するという転化がなければならないはずだ。それが本来の流行語の意味だろう。「ハニカミ王子」では言語が特定の表象から離れない。

今回の選考の中では、一語だけ流行語というに相応しい言葉がトップ10の中に入っていて、それは渡辺淳一の「
鈍感力」である。この言葉は大賞受賞の資格がある。「鈍感力」という言葉は、固有で特別な表象や存在から離れて、一般人が身近な生活の中で使う言語になっていて、しかもそこに時代の思想状況をあらわす独特の意味が編みこまれている。鈍感力という言葉によって、それ以前と以後の日本社会の差異の様相が浮かび上がってくる。この言葉は小泉純一郎が頻繁に使った。今年は何と言っても「KY」が他を圧していて、「鈍感力」では「KY」に太刀打ちできない。昨年06年は「
イナバウアー」が大賞を獲っている。が、そんな出来事も一年で忘れるほど、この言葉を「流行語」として相応しいと思っている人間はいない。昨年のトップ10の中で流行語として適当なものは「メタボ」だろう。「格差社会」は流行語として挙げられるのは適当ではない。流行語としてなら「格差」だろう。言葉を選ぶ行事なのだから、日本語に対して厳密な態度でなくてはいけない。

この一年にはやった流行語を選ぶという行事は悪くない。選ばれた一語を時代を象徴する文化風俗として歴史に記録するのも悪くない。だが、そうである以上、NHKの7時のニュースもオーソライズする国民的な文化行事である以上、その選定は厳正でなければならず、一部の支配側勢力が「公平中立」を偽装して大衆の意識操作を画策するものであってはならず、歴史を捏造する道具に利用させてはならないはずだ。今年の流行語大賞は
「KY」にすべきだった。「KY」を選ばなかったのは、「KY」を選べば、安倍晋三を会場に呼ばなければならず、「KY」の象徴である安倍晋三の名誉を傷つけることになると電通が配慮したからだろう。その言葉が負性なシンボルであり、負性な固有表象と結びついている場合、そしてその負性な固有表象が権力側の人物や組織である場合、電通はその言葉を大賞から外し、トップ10からも外す。だから、真の流行語大賞は流行語大賞にならない。真の大衆の象徴言語は歴史に記録されない。支配ということはこういうことだ。

支配者が大衆を支配するということはこういうことである。支配者に対する大衆の抵抗や批判の言葉を除外し、社会的意義を公式な場で認めないこと。支配者が一方的に決めて上から押し被せる「大賞流行語」をその一年を代表する日本社会の言葉として承認させること。それを抵抗なく受け入れさせること。これこそ政治学で言うところのイデオロギー支配そのものである。こういう現実と現象をイデオロギー支配と呼ぶ。ところで、このような主張で「流行語大賞」に対して批判をすると、屡々「そんなことでいちいち目くじらを立てるな」とか、「マスコミのお祭りだから別にどうだっていいじゃないか」という反応が返ってくる。だから、正論であっても、あまり批判する気が起こらないという向きが多いだろう。異を唱えず、上が押し通してくる「流行語大賞」をそのまま素通りさせる。それが日本人だ。支配者側はその日本人の性格をよく知っているから、堂々と正面から厚かましくお仕着せを被せてくる。本当は、知識人が、政治学者と国語学者が声を上げなければいけないのである。

政治思想史学者が「流行語大賞」の政治に対して批判の一撃を与えなければならないのだ。政治思想史を学ぶということは、その研究の基礎を身に着けるということは、眼前の「流行語大賞」がイデオロギー支配の道具であり詐術であるという真実が見えるということである。その政治学者が、支配の側でなく市民の側に立つ者であるなら、見えた社会科学的真実をありのまま暴露し告発するのが知識人として当然の態度だろう。そういう政治思想史学者が出てこない。そういう社会科学者が日本にいない。最後に、今年のトップ10の中に入った「
消えた年金」だが、この「流行語」の受賞者として式会場に呼ばれたのは、何と厚労大臣の舛添要一である。どこまでも不当で悪質な。「消えた年金」の問題を追及したのは、民主党の長妻昭ではなかったか。「消えた年金」の言葉を最初に発してマスコミに流通させたのが長妻昭でなかったとしても、「消えた年金」を告発したのは、「消えた年金」のシンボルは長妻昭ではないか。なぜ舛添要一が「受賞者」として式会場に呼ばれるのか。
ここに、この「流行語大賞」の支配の政治としての本質が如実にあらわされている。それにしても、11月21日の記者会見で、「来年3月末までの名寄せ作業完了は不可能」と年金記録問題の公約違反を言い、世間から顰蹙を買ったばかりの舛添要一が、よりによって「消えた年金」の流行語受賞式に出て来るとは、厚顔無恥にもほどがある。
【東国原英夫とポピュリズム】
東国原英夫と言えば、つい先日、「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」という極端に過激な
右翼発言をして物議を醸したばかりの男である。真意を問う記者の質問に対して、東国原英夫は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールに則った生活を送る時期があった方がいい」と開き直って持論を展開した。
また今年の3月には、外国人特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦問題」について見解を問われ、堂々と日本政府の責任を否定する発言を行っている。
曰く、
「従軍慰安婦が実際に存在した歴史的確証がない。強制的な慰安婦が存在したかどうかは客観的に確かめられなければならない。両国合意の上で朝鮮半島は日本に併合され、1910年から1945年の間、合法的であった売春婦が日本に出稼ぎに来るのに、何の問題もなかった。今頃になって韓国は日本に植民地支配され、慰安婦を強制されたと言っているが、戦勝国アメリカの力を借りて言っているだけ」。
不思議なのは、年中休みなく「護憲、護憲、護憲」とそればかり熱心に唱え続けている護憲派の人間が、東国原英夫が県知事選挙に当選したときに、「そのまんま東さん、おめでとう!」と興奮した口調で祝福のエールを送り、東国原英夫の草の根選挙と大衆人気を絶賛していた件である。東国原英夫は、小泉純一郎や石原慎太郎と並んで、日本のポピュリズム政治家の代表格に挙げられていて、それが今日の日本の政治の常識である。
ポピュリズムの政治の特徴である大衆迎合、そのポピュリズムの政治の主役である「大衆」の心理を考察する上で、上の事例ほど典型的で示唆的なものはないように思われる。極右の東国原英夫を革新系候補のように観念倒錯(思い込み)したのは、東国原英夫がエリートの出身ではなく、大衆的で庶民的な属性とイメージを身に纏っていたからであり、「大衆的」で「庶民的」な政治家だから、嬉しくてそのまま東国原英夫に飛びついたのである。
で、流行語大賞をとった途端に「不適切だった」と謝罪。
調子のいい男だ。まさにポピュリスト。
【Great Job !】
おつかれさま。
よくがんばってくれました。 ゆっくり休養して下さい。