昨夜(12/9)夜にネットに出た産経新聞の
記事(生活扶助基準額は現状維持)が事実であれば、市川明代を筆頭とする毎日新聞社会部の勝利と言える。産経の記事では、政府が生活保護基準の切り下げを見送る方針を固めたとある。これはどこから出た情報なのだろうか。産経の記事だし、日曜日の夜の発信だから、厚生労働省の官房から出たものとは思えない。自民党の政治家からの情報である。舛添要一が直接書かせた可能性もあるが、私の直感としては中川秀直と町村信孝の顔が浮かぶ。谷垣禎一ではないだろう。霞ヶ関にマイナスになる政策決定のアドバルーンを上げられる人間はそれほど多くない。来年の選挙のことを考えて、自民党の幹部が動いたという理解が常識的だ。もし町村信孝からの新聞示達であれば、恐らくこの政策決定は覆らない。町村信孝は官房長官であり、さらに財務族の大物だからである。もし中川秀直あたりからの情報作戦であれば、すぐに厚労官僚が巻き返しを始める。谷垣禎一と伊吹文明の二人を動かして産経記事の否定に動く。
自民党の政治家が動いた(産経記者に書かせた)ことは間違いないが、動きはずいぶん早かった。公明党の北側一雄あたりが舛添要一か町村信孝を突っついたのかも知れない。この行政決定は創価学会の集票行動に大きく影響する。参院選であれだけ惨敗しながら、性懲りもなく社会保障費の削減に血道を上げて、生活保護まで切り下げる非常識に及んでは、来年の総選挙で学会の集票マシンが稼動しなくなる。今年の夏の悪夢が再現される。この動きの素早さは、しかし何と言っても、日曜日の朝の毎日新聞の記事の威力と言うべきだろう。
あの記事は勝負を賭けた記事だ。生活保護を切り下げるか、現状維持するか、今週中に政府は正式に決めなくてはいけない。財務省原案の締めは迫っており、他にも頭を悩ませる難問は多くあり、この問題で時間をかけている余裕はない。伊吹文明や町村信孝や北側一雄からすれば、そういうことだろう。特に生活保護の問題は学会に対する自民党のメッセージになる。
市川明代と毎日新聞はすべての情勢と時機を承知した上で、日曜日の記事で勝負に出たのだ。あの記事には三名の署名があり、単に記者が個人で取材した記事という性格のものではなかった。毎日新聞が腹を固めて政府と政権を動かしに出た最後の大勝負の感があった。勝つか負けるか。ペンの勝負。この産経の報道が最終決定として覆らないことを祈りたい。今日(12/10)の夜にはNHK総合で『
ワーキングプア』の再構成放送がある。きっと高い視聴率を取るだろう。生活保護関連の問題をブログが記事にしたのは今回が初めてだったが、この問題を論じるのは思ったほど簡単ではなく、知識も必要だし、それ以上に気構えが必要で、浮ついた態度ではまともな記事にならない。ハンドリングが難しい領域である。この大きな社会問題と対峙するためには、問題解決するためには、知性だけでなく勇気が要る。が、昨日のブログの記事を作業する間に、稲葉剛とか湯浅誠とかの名前と活動を知った。彼らは若い。まだ35歳。
ということは、バブルとバブル崩壊の時代を青年期として送ってきた新しい世代だ。堀江貴文と同い年である。日本は、新自由主義の時代をくぐって、堀江貴文のような新自由主義の奇形児も生み落としたが、一方で、それに対抗する精神を同時に育てていた。そのことを感じて嬉しく思う。彼らこそが新しい日本を創るリーダーなのだろう。彼らは体験として高度成長の時代を知らない。そしてまた東西冷戦の時代を知らない。われわれにおいては、それは細胞の中の核の周囲の原形質とも言うべき自然身体的な環境で、カーネルはその中で培養発育されたものだ。だから、どれほど外の環境が変わり、エンジンが新しい情報を処理しようとしても、エンジンがカーネルに依存していて、どこか外の環境情報に対する評価がズレてしまう。戦前生まれの人が建国記念日を「明日は紀元節だね」と言うように、例えば私も、財務原案ではしっくり来ず、「もうすぐ大蔵原案だね」と言ってしまう。財務原案と大蔵原案では実は意味も相当に違う。
だが、古い世代の人間である私の場合は、大蔵原案でそれを考えてしまう。大蔵原案の言葉と意味で予算編成を考えてしまう。ズレがあるのだ。そのズレを意識もしているのだ。意識しながら、「財務省より大蔵省の方がいいんじゃないか」という感覚が、きっと微かに裏側にあるのである。その戦前生まれの人も、きっと建国記念日よりも紀元節の方がしっくり来るのだ。別に保守だの右翼だの政治思想の問題には関係なく。高度成長の幸福な太平洋高気圧の下で少年期を送った私には、新自由主義のエゴの極限の日本がどうしても内在的に理解できないところがある。竹中平蔵以降の日本が信じられない。もっと言えば、あのとき渦中でそれをを見ながら、バブル経済の日本も信じられない日本だった。信じられない日本が20年間続いている。いつ元の日本に戻るのだろうかと思いながら、取り返しのつかない20年間が過ぎてしまった。信じられる日本は、死んだ司馬遼太郎の言説の中にあり、生きて憂国のエコノミクスを説く内橋克人の言説の中にある。
話が脱線して世代論になってしまったが、稲葉剛とか湯浅誠は、これからどういう構想と概念で日本を再建するだろうか。彼らには何となく力強さを感じる。川田龍平に似た力強さを感じる。こういう人間が国会で国民代表の活動をしなくてはいけない。自民党のボンクラ世襲議員ではなく、民主党のチャラチャラした松下政経塾議員ではなく、ああいう不愉快な政治屋稼業の小僧たちではなく、稲葉剛や湯浅誠が法律と予算を決める日本国にしなくてはいけない。身も心も凍りつくような新自由主義の極限で、政府が国民を追い詰めて絶望と自殺へと追い込む政策が常態となったこの国を、若い新しい世代が変えて欲しい。できれば、若い彼らが自分たちの政党を作って挑戦すればよいのだ。考えてみれば、自民党の世襲議員たちは言わずもがなだが、民主党の松下政経塾議員たちも、よく見れば時代遅れの存在なのである。彼らの政治思想の前提はバブル全盛期の日本であり、経済力旺盛な日本が世界で軍事力を行使することだけが前原誠司や長島昭久の夢である。
前提として豊かな日本の観念がシミついている。稲葉剛とか湯浅誠はすでに違う。ボロボロになった二流国日本が前提だ。もう日本は豊かじゃない。前原誠司や長島昭久の前提は崩れている。もう古い。新自由主義によって廃墟とされた環境の中で育った若い日本人の真の知性が、新自由主義を相手に壮絶な戦いを挑んだとき、そのとき日本人はどんなドラマを歴史に残すのだろう。新自由主義日本は、その極限において、意図せぬところに真の墓堀人を生みつけてしまったのかも知れない。ヘーゲル的だ。
【閑話休題 - 夕刊ブログ芸能面】
週刊大衆誌上で沢田亜矢子が堂々の美のアンチエイジング・チャレンジを敢行。
衰えぬ挑戦心と美への執念に脱帽。
奈美悦子も、由美かおるも、水沢アキも、斉藤慶子も、武田久美子も続こう。