
長い長い政治の季節が続いている。二年前の夏の総選挙から始まった政治の激動が、そのまま途切れず、安定することなく、揺れながらわれわれの日常を覆っている。人々の政治への関心は確かに高まっていて、それは国民の生活が苦しくなって不安でどうしようもないからで、経済と生活の打開を求めて、人は否応なく政治に関心を向けるのである。小泉改革が熱狂的に支持されたのも、人々の生活の困窮と逼迫が直接の要因だった。小泉・竹中の構造改革を通じて楽園へ行こうと希求したのである。小泉純一郎と竹中平蔵に騙され、電通と民放の宣伝に騙されたのだ。国民の暮らしは二年前より昨年、昨年より今年と確実に悪化している。それは経済の弱体な地方ほど顕著なはずで、いわゆる三位一体改革の負の波及効果が出て、地方経済は確実に打撃を受けているはずだ。二年半前に(騙されて)投票した結果の報いを受けているのである。中産層の内実を保持した生き方ができたときは、人は政治に強い関心を持たずに済んだ。

定職と定収と貯金と年金があるときは、それが安定しているときは、人は安んじて政治に無関心でいられた。他のことに夢中になることができた。20年前から振り返ると、バブルの頃は蓄財と投機とゴルフとブランド買い物と海外旅行に夢中になり、バブルが崩壊してからは、ラーメンと鍋料理と日帰り温泉と桜見物と紅葉見物の地味な消費が流行った。テレビ東京が夢のないB級グルメで番組を作るようになった。そのうち五木寛之の仏教が流行るようになり、それも数年前は寺院の仏像や庭園を見物する文化的な需要だったものが、最近ではカネがなくて病院に行けない人間が救済と往生のために五木仏教にすがりついている。新自由主義のおかげで五木寛之の仏教ビジネスが繁盛しているのだ。そして今は、人々の財布が空っぽになり、需要を起こして回せる商品が何もなく、ヒステリックな政治番組で騒ぐ以外になくなった。需要は政治なのだ。政治で騒ぐのはカネを使わず無料でできる。テリー伊藤とみのもんたとビートたけしと太田光の政治番組。

狂躁状態が続く中の政治の激動。今年は統一地方選があり、参院選があり、自民党総裁選があり、小沢一郎の大連立騒動があった。途切れることのない政治狂騒が続き、全ての人間が振り回され、振り回されながら振り回しに加わり、振り回しながら振り回されていた。中産層が破壊されて両極分解した日本では、誰も政治に無関心ではいられない。勝ち組に収まった人間たちは、自己の地位を防衛し、堅固な階級として永続化するために、新自由主義の政治体制を守らなくてはならない。テリー伊藤とみのもんたとビートたけしと橋下徹の新自由主義タレントをテレビに出し続け、大衆を洗脳教化する言説をシャワーし続け、大衆が選挙で新自由主義政党以外に投票するのを阻止しなければならない。政治の現場は、プロレタリア化した大衆とそれを操作誘導する新自由主義テレビの狂躁の駆け引きなのであり、その成り行きの何如で選挙の勝敗が決まる。今年の参院選は、想定外の年金問題が突如浮上して、そのため計画が狂い、新自由主義テレビによるプロレタリア誘導工作が失敗した。

新自由主義支配層の側にとっても現在はまだ過渡期なのだ。完全に階級固定が完成していない。構造が固まって軋轢なく自然循環するようになっていない。高卒の親の子は高卒で下層の仕事と所得という社会観念が何の不自然も痛痒もなく一般に受け入れられる社会になっていない。改革経済(リストラ)と改革政治(負担増)でプロレタリアに没落させられた層が諦めていない。米国や英国のモデルのように出来上がっていない。日本における新自由主義の革命は未だ未完の革命に終わっていて、これを完成させるためには消費税を20%に上げ、国民皆保険制度を消滅させなければならない。公立高校を減らし、その学費を私立高並みに上げなければならない。非正規労働者比率を全体の5割以上に上げ、全労働人口の5%を中国人就労者で構成しなくてはいけない。生活保護水準以下の貧困労働層の比率を全体の3割に上げ、餓死者の数を最低でも年間千人以上に上げなくてはいけない。そうでなくては新自由主義革命とは言えない。国民の方から政府に徴兵制を依願するまで、若年失業者の数を増やさなくてはいけない。

来年も政治の季節が続く。富裕層の新自由主義者は現体制を政治的に守らなければ自分が没落する。経済的没落の下降途上にある保守中間層は、しがみつく藁を求めて政治番組の狂騒に興奮し、テリー伊藤のヒステリックなプロパガンダのシャワーを浴びて新自由主義確信病に感染する。没落したプロレタリアは、再び体制内上昇する契機を政治に求めて適わず、周囲の弱者を苛め、暴力と虐待と誹謗中傷で憂さ晴らしをする。政治狂躁の渦中に生きている間は、まさにそこは戦場であり、毎日が生きるか死ぬかの世界であり、紅白歌合戦とゆく年くる年で大晦日の夜を静かに送って、一年を締めくくり新年を迎えるという心境にはなれないのだ。それは中産層の市民生活でありライフスタイルなのだ。新自由主義は全ての人間の精神を荒廃させる。全ての人間を獣に変える。富裕層とて嘗てのマイルドな人間類型ではない。新自由主義における富裕層とは、堀江貴文や三木谷浩史や折口雅博の人間類型である。竹中平蔵や安倍晋三や中川秀直や小泉純一郎の人間類型である。弱者を見つけて襲いかかり肉を啄ばむハゲタカこそが理想的な人間モデル。
正気を失った日本で年が変わる。疲れながら、それに身を合わせざるを得ない。戦場心理とお祭り騒ぎの狂躁の中で、来年の政治がある。途切れのない政治が続く。2005年から始まった激動が四年目を迎える。途切れのない政治。越年国会はまさに象徴的だ。おそらく、解散総選挙へと行く前に政界再編の騒ぎが起きるだろう。例えば、自民党の一部(小泉チルドレン)が割れて、民主党の一部(前原G)とくっつこうとするかも知れない。過渡的な保守三大政党とその合従連衡の政治形態ができるかも知れない。新自由主義革命のために。新自由主義にとっては、革命の速度を鈍らせる「ねじれ」の権力状態は具合が悪いのだ。