今年もあと一週間を切った。昨夜、クリスマスイブの「NEWS23」は、「生活破壊」と題した大がかりな特集を組み、言わば『ワーキングプア』のTBS版の企画を放送していた。特集の冒頭、今年6月に生活苦のために80歳の認知症の母親を絞殺した50歳の息子の姿が紹介された。息子はビルの警備員をして母子二人暮らしの生活を支えていたが、5年前に交通事故で左目を失明して仕事を辞めざるを得なくなり、事故の後遺症もあって新しい職に就けないまま収入が途絶えた。家賃の滞納が始まり、住居を退去するよう言われ、そしてガスが止められ、次に電気が止められ、最後に水道が止められた。その間、二人で窒息自殺しようと頭からビニール袋を被ったが、母が苦しむのを見て果たせず、最後に母親が自分でネクタイを首に巻いて絞めているのを見て、後押しするようにして絞めて死なせた。自分も後を追ってベランダでネクタイで首を吊ったが、自殺に失敗し、殺人罪で拘留所に入って裁判を受けた。判決は(うろ覚えだが)懲役3年、執行猶予5年。
もっと長く刑務所生活を送るものと本人は思っていたが、結局、3か月で拘置所を出され、行くあてもなく、住む場所もなく、担当弁護士から借りた1万円を使い、出所した夜は1泊1800円の宿に泊まり、そこでTBSの取材を受けていた。母親を手にかける前、最後の現金を使い果たしたときに、大阪市の市役所窓口を訪れて生活保護の相談をしていた。窓口で応対した職員は、申請のためには働けないことを証明する医師の診断書が必要だと言い、病院に行く金が無いのだと訴えた息子の求めを無視して冷たく門前払いした。番組は、この息子のケース以外にも多くの例を紹介していたが、生活保護行政の窓口の問題に焦点を当てていた。母子家庭で母親が鬱病のケースでは、親子が福祉事務所の窓口で何度も民生委員に罵倒され、侮辱を言われて心を傷つけられ、母親と息子の両方が体調を崩す場面が生々しく紹介されていた。広島のOLの例では、生活保護の申請に行けば、3人の職員に取り囲まれて虐待の扱いを受けるから、もう行きたくないと呻いていた。
生活保護の行政の現場で何が起きているか、具体的なやりとりの場面が撮影されたわけではなかったが、視聴者にそれがよく想像できる報道になっていた。それと同時に、別の母子家庭の例の取材では、働きながら、いわゆる生活保護以下の生活をしている女性が出てきて、「月6万円貰えれば私だったら貯金ができる」と言い、政府が進めている生活保護受給額切り下げを正当化する心境を漏らしていた。特集全体のナレーションを倍賞千恵子がやっていた。番組では、NHKと同じく、それではこの問題をどう解決するかに踏み込もうとしていたが、後藤謙次のメッセージは弱く、単に「地域や周囲の仲間の互助」という視点に止まり、NHKの鎌田靖のような政府に正面から政策転換を迫る問題提起には至らず、見ながら失望させられた。が、その後に筑紫哲也が「多事争論」で登場し、とても感動的なメッセージを残してくれて、番組は最後の最後に格好がついて終わった。やはり、後藤謙次と筑紫哲也ではジャーナリストとしてのスケールが違う。筑紫哲也は知識人として自己を完成させている。
筑紫哲也はこう言った。「
今年の一番大きな問題はサブプライムローンの問題でした。この問題は、最近の私たちの社会がずっと言い続けてきた一つの言葉の虚構性を示しています。その言葉とは自己責任です。住宅ローンの債務担保が証券化され、それが癌細胞のように世界中の金融取引に飛び散って、誰も知らない間に世界中の金融機関が手元に不良債権の癌細胞を抱えました。そこで自己責任を問うことができるのか。サブプライムローン問題は、新自由主義の言うところの自己責任がフィクションである真実を象徴しています。フィクションである自己責任を言うことで、われわれは、その人間に本来責任のない問題までその人間の責任にして押しつけて冷酷な社会を作ってきました。新しい年は、この言葉を、この(新自由主義的な)意味で使うことを最早やめなければなりません」。素晴らしい「多事争論」だった。自分の病気の話から諄々と説き起こして、論理を一本のメッセージに纏める。比喩と象徴で本質が射抜かれ、見事な社会批判が構成されている。ここまでの芸当は筑紫哲也しかできない。
やや遅きに失した感はあるが、NHKに続いて民放でも生活保護や働く貧困層の問題に報道の関心が集まるようになったことは嬉しい。「報道のTBS」と自慢して言うのだから、NHKより早くこの社会問題に焦点を当てて然るべきだった。TBSには『報道特集』という日曜日の夕方に放送している番組がある。本来、この番組でずっと前に特集されていい企画のはずだが、『報道特集』の番組の性格は、キャスターの料治直矢が95年に引退した前後からすっかり変わった。最近は北朝鮮拉致問題ばかりを特集する右翼番組に変質してしまっている。あの田丸美寿々がキャスターをやりながら、視聴者として情けなく、残念きわまりないことだが、私はここ数年この番組を見ていない。問題の中核は生活保護行政なのだ。テレビが取材して報道するべき社会問題であり、追跡すれば確実に中身のある番組ができる。視聴者からの反響も得られる。テレビのジャーナリストが動くべきだ。それと、この問題は政府に憲法25条を守らせるということだが、もっとアカデミーの中でこの問題に積極的に取り組もうとする研究者が出て来てくれないだろうか。
憲法9条を守ることに熱心な学者は多いが、憲法25条を守るべく立ち上がり、政府の生活保護行政にメスを入れる法学者や経済学者が少ない。政治学者では一人もいない。現在の生活保護行政の現場は、役所の窓口は、人権侵害と精神暴力の虐待現場そのものになっているではないか。なぜ学者はそれを糾弾しないのか。なぜ厚生労働省の用心棒になって、生活保護の引き下げを答申する
学者ばかりなのか。丸山真男のような知識人が生きていた頃は、すぐに雑誌「世界」で行動を起こし、生活保護行政を憲法25条の理念に従わせる国民運動を提起して、学界や文筆界や労働界や宗教界の重鎮に署名参加を呼びかけていただろう。今からでも遅くないから、誰か本格的な知識人が運動のリーダーに立って、この国の貧困と違憲行政と戦う国民戦線の結成を呼びかけて欲しい。NHKの『ワーキングプア』の取組みに続いて欲しい。最後に、母親を絞殺した50歳の息子の言葉が印象的だった。「ここ何年かクリスマスもお正月もなかった」。「外に出ることができなかった」。同じだ。程度の差はあれ、精神的な境遇はきっと誰もが同じはずだ。
クリスマスも大晦日もお正月もない。あっても昔のように楽しくない。気分が憂鬱になるだけだ。本来楽しいはずの時間と空間が、疎外されて、転倒を起こして、嘆息と煩悶の時間と空間になっている。
【To NY金魚さん】こんにちは、おひさしぶりです。
NYから長いメールを頂戴しましてありがとうございました。
あれから、もう二年になりますね。月日がたつのは早いものです。日本の状況はどんどん混迷を深めて、国民の生活の苦しさや希望の見えにくさは、日に日に暗く重くなっています。それでも、夏の選挙でようやく野党が勝ち、少しばかり(遠い先に)曙光が見えつつあると言えるのかも知れません。
毎日、信じられないような問題が噴出し、この国に生きながら、ここは近代でも現代でも何でもなく、まさに平安末期の日本で、国司権力と荘園領主の苛斂誅求が横行して、民草が苦しめられる末世なのだとつくづく思わされます。あの憲法が冗談ではないかと思うほどです。大学の講義で、平安期は事実上の奴隷制であると習いましたが、それは今も同じですね。
NYでカラオケに行きましょうと言ったまま、いつ果たせることになるやら。ブログもずっと書き続けられる環境ではなくなりました。一年のうち、二か月でも三か月でも、書けるだけ書いておこうと思い、そのように努めています。なるべく、自分が後で納得できる出来を心がけて、石川啄木の三行詩のように、ていねいに一作一作を並べ、後で読み返そうと思って続けています。
NYは雪ですか。ダスティン・ホフマンの主演した映画「クレイマークレイマー」を思い出しますね。それでは新しいブログのチャレンジ、頑張って下さい。じっくり拝読させていただきます。
Best Regards,