
子供の頃、冬休みがたのしかったのは、それなりの暮らしがあったせいもあるけれど、希望を持って生きられる社会がそこにあったからだ。幸福な人生に向かって夢を見ることができたからだ。努力すれば必ず報われる社会だったからだ。あの頃は、福祉という言葉が社会の中心にあった。世の中の価値の中心にあり、どの政党も選挙になれば「福祉、福祉」と騒いでいた。「産業大学」の設立が全国で一巡し、各地で「福祉大学」の開校が流行っていた。社会環境という観点から、自分たちの世代と較べて、今の日本の子供たちは本当に気の毒な環境の中で生きさせられていると思う。身を押し潰すような暗くて重い社会の空気の中で、格差社会を大人になるというのは、子供にとってどれほど精神的に辛いことかと思う。こんな時代になるとは思わなかった。われわれの世代は、恵まれすぎた少年時代の罰が当たっている、と、そう考えてもよい。

しかし、であれば、恵まれなかった今の子供たちの世代は、必ず、「こんな時代になるとは思わなかった」と後でしみじみ思うような、バラ色の幸福が将来に与えられて欲しい。今日も、山口二郎の消費税増税論に対して批判を続ける。山口二郎、民主党、朝日新聞、この三者の共通した主張は、今後増加する社会保障予算を賄う恒久財源を制度的に手当てしなくてはならないという点であり、消費税をそれに充てる、或いは消費税の税率を上げて社会保障支出の増加に対応するというものである。奇妙なのは、常日頃の議論では、官僚は財政再建至上主義の思考停止に陥っていると官僚批判を展開する山口二郎が、消費税の社会保障財源化については、官僚の言うがままをそのまま無批判に受け入れていて持論にしている点である。なぜそこで簡単に消費税の社会保障恒久財源化論を受け入れてしまうのか。なぜそこで一歩踏み出して問い直しをしないのか。

本当に予算当局が財源で困窮しているのなら、なぜミサイル防衛や米軍再編基地移転や思いやり予算の支出をカットしようとしないのか。社会保障の財源問題で始めなければならないのは、消費税の引き上げと恒久財源化の「
本格的な議論」ではなくて、現行の予算枠の中で本当に削減できないものはないか、無駄な散財や浪費はないかという検証の議論だろう。山口二郎や朝日新聞や民主党の税制論議の最大の問題は、そうした科学的な検証抜きに、無前提に、「社会保障の財源がないから消費税」という結論を国民に向かって説得している点である。必要なのは検証だ。財務官僚は自分たちに不利なデータは出さない。自分たちの推進する大衆増税路線を否定する材料となる数値は隠して見せない。だが、公開されている予算情報だけから大雑把に推測しても、今後の社会保障支出の伸びに充当する予算分を他の費目(特に聖域化されてきた防衛費)から削ることは十分可能であると思われる。

それ以前に、銀行免税措置廃止や証券譲渡益税率引き上げや所得税最高税率引き上げなど、予算の基本原理を現在の新自由主義的なところから改善することで、本来、歳入となるべきものが国庫に入り、伸びる社会保障予算を充当する原資となり得る。政府がやろうとしているのは、大儲けしている銀行には無税特権を与え続けて儲けさせ、高額所得者の税負担を減らしたまま、国の税収が少ない少ないと言い、社会保障支出の伸びを消費税で充当させようという税制措置なのである。ここで重要なのは、果たして消費税が2倍になれば社会保障給付が2倍になるのかという問題だ。医療費は半分になるのか。年金支給額は2倍になるのか。介護保険は半額になるのか。恐らく政府は現状維持すら考えてないだろう。消費税を2倍にしても、財政再建を理由にして、社会保障の中身を改善する方向には予算措置しようとはしないだろう。消費税増税分は一般会計に吸収され、従来と同じく官僚の意のままに使われる。

つまり、社会保障の恒久財源というのは口実なのだ。単純な大衆増税だけが目的である。社会保障は永久に切り下げるのだ。切り下げて、切り下げて、制度が完全に消滅するまで、切り下げ続けるのだ。企業課税や資産課税は極限まで引き下げ、消費税は極限まで引き上げ、国家は社会保障一切から手を引く。それが新自由主義の政府(小さな政府)の目標原理なのである。竹中平蔵が敷き固めた「小さな政府」の基本路線に従って、現在の日本政府の官僚は新自由主義のロボットのように行政事務を執行している。その真実を見きわめなくてはいけない。消費税増税は社会保障の恒久財源のためではない。格差拡大のためにやるのだ。貧困者の負担を重くし、貯蓄を吸い取り、子供の進学を諦めさせ、病院療養を放棄させ、二度と社会的に這い上がれないようにするため、貧困層を貧困層として構造固定させながら拡大するため、新自由主義の
理想社会の実現のため、消費税を増税するのである。社会保障の恒久財源という説明は嘘だ。

山口二郎は新自由主義者ではない。山口二郎が消費税増税を社会保障の恒久財源として正当化する理由として、恐らく、山口二郎の頭の中には「高福祉高負担」の北欧型福祉国家のモデルがあるはずだ。デンマークやフィンランドなどのモデルがあり、そこでの国民負担率や消費税率が念頭にあるのだろう。デンマークの消費税率は25%。所得税率は50%。確かにきわめて高負担である。今回の稿では詳細には立ち入らないが、デンマークでは、国民の医療費と教育費は無料である。大学の授業料も無料。年金と介護の負担もない。日本と比較してどうだろう。簡単には言えないが、少なくとも、デンマークのモデルを導入すれば、あの『
ワーキングプア』の番組の中で登場した、千葉の夜勤のガソリンスタンドで働く父親の二人の息子を大学へ進学させてやることができる、とそう思った。あの二人の男の子は、どうしても大学へ入れてやりたい。恐らく、私は、これから年をとるだけ、デンマークモデルの方がいいと確信を深めるようになるだろう。

話を元に戻して、民主党と朝日新聞と山口二郎の消費税増税論だが、民主党と朝日新聞は言わば「確信犯」的なところがある。民主党はそれを「政権担当能力」の証明だと言っている。が、民主党の中には本来的に新自由主義の政治思想の人間が多くいて、彼らにとって大衆増税と企業減税の新自由主義税制路線は自民党の「改革」以前の自家薬籠中の物である。 民主党税制調査会の会長である藤井裕久は、旧自由党の大物で大蔵官僚出身。現在の新自由主義の財務官僚の草分け的な存在だと言える。この時期に、国民が民主党に「生活第一」の政策を求めている時期に、消費税増税を堂々と公約に打ち上げる態度は、小沢一郎と藤井裕久と民主党の「三つ子の魂百まで」の本来性を思わせられる。朝日新聞の方は、これは竹中平蔵の構造改革主義に骨まで心酔している論説主幹の若宮啓文の信念からの世論工作であり、また、ジャーナリズム以前に日本の統治機構の一部(=「新聞のNHK」)として、財務官僚をサポートする生業任務の自覚の賜物でもある。

山口二郎はそこまで新自由主義の「確信犯」ではないし、統治機構の一部として財務官僚の思惑を代弁するスポークスマンの自覚もないはずだが、しかし今回の消費税増税論は、時期から考えて、単に「口がすべった」のでもあるまい。来年の総選挙で民主党が消費税増税を公約にするよう指南したのであり、その責任はきわめて大きい。結論になるが、同じ消費税増税でも、福祉国家の消費税増税と新自由主義の消費税増税の二つがある。消費税増税というオペレーションは同じだ。自民党と民主党右派と財務省が進める消費税増税は、福祉国家の消費税増税ではなく、新自由主義の政策としての消費税増税である。それを恰も福祉国家の政策のように偽装する、或いは自己欺瞞させる、国民に観念倒錯を起こさせる。それが新自由主義者たちのイデオロギー手法である。騙そうとしているのだ。要するに、山口二郎の消費税増税論は観念倒錯であり自己欺瞞の結果である。財務官僚の論理に乗せられて、新自由主義のものを福祉国家のものと混同し、錯覚を起こし、言ってはいけないことを言ってしまった。
消費税増税には二つの道がある。一つは福祉国家の道、もう一つは新自由主義の道。今の日本で、政府の消費税増税論に無批判に呼応することは、そのまま新自由主義の道の選択に繋がる。軽率は許されない。
【ブット暗殺】
合掌。
優秀で、きれいな人で、54歳とまだ若かったのに。
ライス長官はさぞかしショックだろう。期待していたはずだ。
米国のパキスタン統治とアフガン作戦の展望はこれで大きく狂った。
オックスフォードで政治学を学んでいる。先生は誰だったのだろう。
今年4月の長崎の伊藤市長の事件を思い出す。私は、あれは単なる私怨による襲撃事件だとは思っていない。政治的な目的を持ったテロであり、本島市長のときの未遂事件と同じだと思っている。平和に対するテロ。誰かが暗殺の指示を出している。そして私は一人の政治家を疑っている。その政治家は権力者で、思想も手法も極右であり、地元では右翼との黒い噂もある。日本会議の同志が長崎にいる。そのとき、まだ年金問題は浮上してなくて、松岡利勝や赤城徳彦の政治とカネの問題も出てなくて、7月の参院選は、憲法改正の是非を問う選挙になると予想されていた。護憲側を暴力で脅すにはちょうどいいタイミングだった。だから、参院選のとき、選挙区に立候補した候補者のことが心配でたまらなかった。接戦になりそうな情勢になれば、ひょっとして狙われるのではないかと思ったからだ。杞憂に終わったけれど。
