
今からふり返って、宇多田ヒカルの恐るべき偉業の一つは、日本語の意味を変えてしまったことで、具体的に言えば、「ファーストラブ」という言葉は、宇多田ヒカルの前と後で意味が完全に変わってしまった。我々の時代、その言葉の意味は「初恋」であった。宇多田ヒカルの曲の後、その言葉の意味は「初体験」に変わった。それは実にショッキングな出来事で、宇多田ヒカルを国民的な大スターに押し上げた完成度抜群のバラードを聞きながら、我々は何度もその「革命」のマニフェストに折伏されて、時代の転換を宣言する16歳の宇多田ヒカルの前に首をうなだれていたのである。それは、「初恋」と「初体験」の間に物理的な時間差が設定されなければならないと考える性倫理の常識を暴力的に破壊する革命思想のメッセージだった。「初恋」という日本語の概念が消えたのである。これからは「ファーストラブ」しかない。

宇多田ヒカルのその革命は、「First Love」だけに止まらず、狼狽する大人の我々をあざ笑うかの如く、次の「Addicted To You」でも度肝を抜く一撃が仕掛けられてきた。革命に次ぐ革命。「
Addicted To You」の中にある「いま大人になりたくて、いきなりなれなくて」の歌詞。宇多田ヒカルが仕掛けた日本語性革命の次の標的は、「大人になる」の意味転換だった。我々の世代の常識では、「大人になる」の意味を性的に捉えれば、それは素朴に「初体験」の意味になる。だが、宇多田ヒカルの言語革命はその先に一歩進めた「性」を暗示して、「大人になる」の言葉の意味転換を主張し説得した。歌に織り込む詞の表現は、二重三重に意味を掛け、聞く者の想像を刺激する詩作の技の世界である。エンコードとデコードの世界である。宇多田ヒカルのエンコードを理解するためには、意味を解読するデコーダを持っていなくてはならない。

気づいた瞬間、あまりの大胆さに圧倒された。恐るべき詞(ことば)の天才。宇多田ヒカルはまだ16歳。だが16歳だからこそ、その言葉は革命的な意味を持つ。26歳では革命にならない。「大人になる」の言語の意味も、今後は宇多田ヒカル的なスペシフィケーションが標準になるのだろうか。日本には、額田王とか、与謝野晶子とか、時代の常識を超えて愛を大胆に表現する文学の伝統がある。宇多田ヒカルの革命は、まさにその伝統の継承であり、創作様式における伝統的な方法論の反復であり、だから大多数の日本人から支持を受けた。額田王は疑いなくそうだろうが、宇多田ヒカルにも、多分に巫女的・霊媒師的な超能力の要素が窺われる。それは、宇多田ヒカル以上に母親の藤圭子においてその印象が濃厚で、神霊を憑依する巫女の表象を想像するとき、藤圭子ほどそれに相応しい具体像を提供する人格はないように思われる。宇多田ヒカルは巫女の娘だ。

古代、巫女は聖娼でもあった。神を身体に降ろして神として振る舞い神の言葉を告げる巫女の超自然的能力について考えるとき、巫女と巫女以外の女を区別する個体的な能力差なり資質上の差異は何なのか。巫女はどうやって巫女としての能力を選抜されるのか。そこに想像をめぐらせるとき、巫女的性表象と宇多田ヒカルの言語革命とは、ある種の神秘的な整合性なり親和性があるように思われるのであり、その親和性を感性的に直感したところで、何やら納得できる解を得たような気分になるのである。そして、宇多田ヒカルの神がかり的な天才が剥落し消滅した理由について、あの病気の手術と治療という契機を入れることで、何やら妙に(それは下品な想像に違いないが)納得できるのである。手術と共に宇多田ヒカルは天才を失った。治癒によって宇多田ヒカルは巫女の娘から普通の人間に戻った。「First Love」の「君」も「Addicted to you」の「君」も同じだ。同一の男だ。

宇多田ヒカルを個人的に大事に思う理由は、最近の新しい歌手の中で「歌がいい」と思える歌手が出てなかったのに、若い人たちが発見して絶賛した宇多田ヒカルを中年世代である自分もいいと思えたことがある。この事実は嬉しいことだった。変転する音楽シーンから取り残されている不安感や疎外感が払拭され、自分の音楽的感性に自信を取り戻すことができ、同時に、心ならずも軽蔑していた日本の若い世代の音楽的感性に対して尊敬の心を取り戻すことができた。つまり宇多田ヒカルは、私の中で、断絶している日本の古い世代と新しい世代を一つに繋ぎ直してくれ、音楽の普遍性を証明してくれた。だから宇多田ヒカルは日本の貴重な国民的財産のように思える。7年ほど前、電車に乗ると、私と同じ世代の男が、ヘッドホン(イヤホンではなくヘッドホン)を着けて宇多田ヒカルを一生懸命に聴いていた光景に屡々出くわした。何か自慢するように中年の男たちが宇多田ヒカルを聴いていた。きっと同じ気分だったのだ。

90年代末、新自由主義が中産階級を没落させてゆく初期の段階、日本人は「失楽園」とモーニング娘と宇多田ヒカルを娯楽にして心を慰めていた。リストラの暴風雨の経過を待ち、次の「景気回復」のサイクルで反転復興するのを待っていた。宇多田ヒカルは、当時の傷ついた日本人の心を癒し、価値のある娯楽を提供して満足させてくれていた。宇多田ヒカルを貴重に思うのは、その時代に慰めてもらった感謝の意味も含まれている。いま日本人は「政治による救済」を渇望する段階にある。その前、1997年から2002年の頃は恐らくそうではなく、ウェーバーの「
中間考察」的に言うならば、「性による救済」に彷徨していた時代だった。その時代を過ぎ去って、すでに五木寛之的な「宗教による救済」さえ流行らない段階になっている。本や映画の評論ができなくなっているのは、それができる条件を失っているからであり、条件を取り戻すために、政治に向かわざるを得なくなっているからである。格差社会の時代、本や映画の評論は前提基盤を失う。
格差社会となり、市場がプロレタリア化し、書店の本もプロレタリア化し、そして政治化して、中産階級向けの文化を提供する新刊本が店頭から消えた。村上春樹の「アフターダーク」はそのことを暗示していたように思う。Back To The Middle。中産階級の文化を取り戻すためには、その文化の中での自己実現を取り戻すためには、中産階級を社会的に復活させなくてはいけない。